電子の海の月

深恵 遊子

海月は波間に漂う

 私は海月だ。白痴のまま今日も電子の海をそぞろに漂う糸遊。ふわふわとした気分のままに踊っている。

 赤、青、黄、黒と色とりどりな魚たち。その囁きを袖にして広大な海をふらふら気ままに浮かんでる。


 「みおつくし、」なんて気持ちを歌にできる夜光虫ノクチルカのように軟派でもないし、魚たちのお腹の中の真っ黒な愛欲に気付かない珊瑚カルカゾニアのようなお堅さもない。だからといって可憐な花の姿のふりをする海綿ポリフィラみたいな生き方も難しい。あくまで私は夢見る海月ヒドロゾア。周りに流されながら生きることしかできないのだ。私自身がそうなんだって知っている。


 現実りくで自分の傷を語り合えるほど強い人間じゃない。海から出ては息なんてできないし、きっとアクアリウムでツンとしているしか価値がなくなるのだ。

 だから、————。


「もしかして、委員長じゃないか?」


 君のその一言は酔いも夢も全て引き剥がす、なによりも怖いものだったのだ。




 ……あたまがいたい。

 朝起きると高い頻度でこんな頭痛に悩まされる。原因は明確で机の上にばらまかれた薬のシートがなによりも物語っている。


「ひぃ、ふぅ、みぃ……んん、二錠余計になくなってる? これは二錠も足したな?」


 セダプの三ミリよりフォーミーの五ミリの方が早く落ちるからこういうことがなくて好きなんだけどな。最近はセダプしか処方してもらえないから仕方ないか。それにしても気軽に足しちゃうこの悪癖は直さないとダメだよなぁ。


 いろんな意味で頭を抱えている私は聞く人が聞けばわかるとは思うがODの常習犯だ。

OD、オーバードース、あるいは過量服薬。高二の夏に私が覚えた悪い遊びだ。


 とある経緯で適応障害に陥った私は不眠などの諸症状の改善のため精神科で向精神薬の一種であるセダプを処方された。

 はじめは真面目に一日三錠、朝昼晩にというのを守っていた。ピルケースに一日分を分けて入れて管理なんてことまでしてたのだ。

ある夜のこと不安が原因で寝つきの悪かった私は早く眠ることを目的に一回に二錠のセダプを飲んだのだ。

 その時の体験は今でも覚えている。

全身がゾワゾワとする感覚に包まれて、頭がぼんやりはっきりとしない状態になる。余計なことは少しも頭をかすめず、ただただ優しい陶酔を得る。


 薬物への依存の始まりだ。

 以来、薬をキメるということにはまり込んでしまった。市販薬の風邪薬を大量に買い込んだり、頭痛薬を四シート一気に飲んでみたりし始めたのだ。いろんな薬を手に入れては試してみたけれど処方薬の方が気持ち悪さがなくていいということで今の形に落ち着いている。


 珍しく開きっぱなしになっていないスマホをカバンに投げ込んで朝の準備を始める。

 コーヒーを淹れながら、洗顔、寝癖を直し、不精の結果伸びすぎた髪を後ろ手で結わえる。冷蔵庫の中から卵とベーコンを取り出して熱した油の中に落としていく。トースターに投げ込んだ食パンにそれらを載せて、コーヒーとともにもそもそと食べる。


 誰もいない食卓。賑やかな食事風景なんて幻想だ。そんなもの現代のどこにも残ってない……多分。自信はない。


 どうやら父はすでに出勤済み、机の上には父特製の弁当が載っている。ホントにマメな人だ。他方、母は在宅だから昼まで寝るつもりだろう。昨日も夜中まで仕事だったみたいだし。

 自室でじょしこーせーの皮を被り、銀縁の眼鏡をかければもう私がジャンキーだなんてわかりはしない。


「いってきます」


 誰も聞いていない形式的な言葉を4LDKに残して、ローファーを三度ずつコツコツと蹴る。

 今日も苦痛だといって余りある学生生活を送りに行こう。




 私がクラスで与えられたペルソナは生真面目、リーダーシップがある、なんでも話を聞いてくれる、といったところ。度の薄い眼鏡も相まってそのまんま学級委員長というイメージが強いみたいだ。

 最も私の主観であればそんなイメージ私を閉じ込める檻でしかない。


 私だってコスメとか興味があるし、ピアスだって開けてみたい。眉だってちょっとコンプレックスなのだから剃るくらい許してもらいたい。

 そこに不満をこぼす自由すらなくなってしまうならそんな風評は邪魔なだけ。不要というものだ。


 あと、話を聞いてくれるというイメージも私にとって苦痛だ。誰が好んで「五組の市川と純夏すみなって付き合ってるらしいよ」なんて話を聞くか。そんな話一ミリも興味ないって、誰が誰とどういう関係だろうと私に何が関係あるっていうんだ。

 そんなわけで私の高校生活は灰色、鈍色真っ只中。浮いた話も楽しい話もあるわけなく、何がイベントがあるわけでもない。

 これまでがそうなのだからこれからもそうだ。そう思っていたのだけど、

「委員長、今週の土日空いてるかな?」

なんて目の前の男はのたまった。


 昼休み、騒がしくしてるはずの教室に一瞬の沈黙がおりる。「ああ、これが天使が通るってやつね」と無駄に冷静な思考が鬱陶しい。

 よくお昼ごはんを食べるお友達、榎宮えのみやさんに至ってはポカンと口を開けて箸で挟んだ卵焼きが落ちそうになっている。

 あんたさんの幼馴染を早く対応なさい。私は見ておくから。

 私に話しかけてる? さいですか。

 冷静に返せばなんの騒ぎにもならず終わるでしょう。私はこういう恋愛沙汰に繋がりそうなことは全回避すると決めているのだ。誰に対してかは知らないが「見てろよ」という気分で口を開く。


「場所、時を選ばずそのような結論を得て行動した理由を八百字程度でまとめなさい」


 小論文の問題文か。

 もはやどこにも冷静要素なんてなかった。自分で自分にツッコミが入るレベルだ。ほら、言葉を返された彼だって首を傾げてるだろうが、もうちょっとまともな返事をしろバカ。


「普通にデートに誘いたい、って話だったんだけど……それくらい熱烈なラブレターもらわなきゃやだってことかな?」


 ことかな、じゃないわ! 首をかしげるな、微妙にかわいいだろが。

 突如教室の中で始まったコントにクラスの視線は釘付けだ。今は私に視線が集中してるのを感じる。こういう状況は本当に苦手だ。


「書くのは自由だけど提出しないでよ?」

「受取拒否は酷いな」

「私はそんなくだらないことに時間を使う気ないし」


 キッツイな委員長、なんて離れた方から聞こえてくる。野次飛ばしてるんじゃないぞ、山下。お前覚えてなさい、二度とノートを見せてなんて戯言聞かねえかんな。

 いや、わかってる。わかっているのだ。

 こんな昼の教室のど真ん中でそんな話を持ちかけるなんてそれくらい断って欲しくない気持ちの表れだろうし。私も個人的に誘われる分にはやぶさかではない。

 が、しかしだ。

 こんな同調圧力を利用するようなやり方は好きじゃない。反抗心ばかりがムクムクとこみ上げてくる。


「そんなに嫌ならデートはいいや。でも、せめて今日の放課後にお茶だけでもしてくれないかな」


 おお……とどよめきが広がる。教科書通りのドア・イン・ザ・フェイスだからどよめきだって起こるわ。

 教科書通りなんて口では言えるが実際こんなのきたらわかっていても断りづらい。

 嫌々というていで顔に垂れる触角をいじる。


「わかった。わかったからその話は放課後にいいかしら?」

「もちろん」


 やられたという気分いっぱいで弁当箱に向かい合う。背後では勇者を讃えるクラスメイトの声。いつも目立たない彼、町田まちだ優希ゆきが珍しくクラスの中心になっている。

 父の作った甘めの煮付けがなぜか苦く感じた。きっとあの男にダシにされたからだ。

 心の中でだけキッと町田のことをにらむことにした。




 放課後、約束通りに私は町田くんとお茶をするべく彼の幼馴染でもある榎宮さんを伴って歩いていた。


「ホント、男子ってわかってないよね」

「そうね」


 榎宮さんとは一年の頃からのお友達だ。

 一般的にいうところのクラスでは派手目な女子に該当する彼女は男子とよく不純な意味で遊んでいるように見られている。

 お堅い委員長と尻の軽い女。「なんで友達なの」と聞かれることもあるけれど、彼女といるのが一番負担がないのだから当たり前だ。


「なんであんなタイミングでそういうこというのかな。あれで断れるわけないじゃん」

「私もそう思うわ」

「簡単にこういうことするから男ってほんと嫌い」


 しかめ面で言う榎宮さんに相槌を打つ。

 適当な相槌だが、彼女は構わず話し続ける。こういう感じでも怒らないのだから鈍いのか、それとも話すことで脳内物質分泌キマってるのか。

 特に彼女は男性を悪し様に言うときこのような傾向がある。


 彼女は幼い頃には父親から性的虐待、痴漢、果ては強制わいせつなんかも受けたんだとか。そんなこともあって幼馴染であろうと男性というだけで好感度は負の領域に突入してしまっている、らしい。

 らしい、というのは覚えている限りを繋げるとそうなるという話だ。彼女が喋り続けるのに肯定的なニュアンス相槌を打つだけで私は何も聞いていないのだから覚えていないのはご了承いただきたい。


「で、」

 そう言って榎宮さんが私の前に出る。

 少し邪魔だなと思いながら立ち止まる。俯き加減で何か言いたげな彼女は意を決したように、

「優希とは付き合うの?」

と聞いてくる。


 それに対する私は即答だ。


「ないよ」

「そりゃ……そうだよね! みっちゃんが優希なんてありえないよね!」


 あからさまにホッとした様子を見せてもごもごと要領を得ない言い訳を始める。それは男嫌いとうそぶく彼女にはいささかばかり珍しい姿だった。


 つまり、

「榎宮さんって町田くんのことが好きだったのね」


 顔の色が赤から白、そして、通り越して青になり、赤に戻る。忙しいなぁ、血液。

 普段の「男は下等」と言って憚らない姿とは一転している。現金すぎてかわいいな。


「そんなわけないじゃん! 優希は男としてはマシだけど、それだけだから!」


 はいはい、と適当にいなしながら歩いていると下駄箱には既に彼の姿があった。

 すぐに彼は気づいたようで壁に寄りかかっていた背をただすとこちらに片手をあげる。

 そして、私のすぐ傍で顔が真っ赤にしてる女の子を見つけて、怪訝な顔に。すぐに真面目な顔になったが遅すぎる。


「ああ、悪いけど香織は抜きでお願いしてもいいかな? 茶化しとかいらない真面目な話したいから」


 うわぁ、辛辣。

 仮にも好きでいてくれてる幼馴染にそこまで言うのか。脈なし間違いなしって感じがすごいよほんと。あの顔の直後にこれを言える勇気を賞賛する。時間を経ることによる気安さがお互いに悪く働いている、って感じか。それにしてもあまりにもあんまりだ。


「茶化すって何!?」

「本当のことでしょ。香織ってすぐ自分に関係ない話に首突っ込んで文句言いたがるじゃない」

「女の子のデリケートなところ突っ込む人がいるから噛みついてるだけだし! 今の優希みたいな人がいなければ私だって噛み付かないし!」


 どうどう、と私は別の意味で真っ赤になった榎宮さんを宥めつつ、

「その話はここではできないの?」

と痴話喧嘩に冷や水をかける。ここまで怒っているのだ機嫌をとったほうがいいだろうという気遣いも含めていたのだが反応は芳しくない。


「……委員長がいいならそれでいいけど、この画面見てから考えたほうがいい」

と町田くんは私にスマホを手渡す。


 表示されているのは遠目に見る限りは出会い系のSNSの一つのようだが、


「——っ!?」


 思わず画面を閉じて町田に投げ返す。

 ここでそれを出したのはどういう意図なのか、下がるように私は彼を見上げ睨め付ける。

 彼の見せてきたスマホ。

 その画面には“ヒドロゾア”というアカウント名と加工して限りなくわからなくなっているが、そこには私のバストアップ写真が写っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る