最終話・浜の真砂は尽きるとも

 部屋に戻ると俺は封筒の中身を取り出して読み始めた。そこには新種の稲を様々な条件下で育成した記録と、病原菌や薬剤への耐性試験の記録など、ごく普通の実験記録が木下教授と浅井さんの字で英語で書かれていた。更に読み進むと、この稲から採れた米を餌として与えたマウスの中に異常が現れるものがあるとの記述があった。その症状はまず動作が緩慢かんまんになることから始まり、やがて止まったまま全身が痙攣を起こし、死に至るまでその状態が数日間続くとあった。痙攣が始まり死に至るまでの間は、餌はもちろん水さえも飲まずそのまま死に至るとあった。原因は、極微量ではあるが米の中に生成される未知のタンパク質だとわかった。マウスの個体による代謝の違いで発症時期に大きな隔たりがあり、症状が全く現れないものもあることがわかったが、教授達は人がこれを食べ続けた場合のシミュレーションを石田種苗のスパコンを使って試みた。その結果は、この米を人が食べ続けた場合、生涯発症しない人もいるが、発症する人は食べ始めて二十年から発症し始め、累計発症者数は三十年までで7%、四十年までで17%、五十年までで37%、六十年までで59%で、七十年までには89%が発症し、発症後四十日以内で死に至るとあった。無毒化のために必要な解析には石田種苗のスパコンなら二年連続で可動させる必要があるとの予測も書かれていた。そして最後は教授の字で、旧知のものに支援を依頼したが到底受け入れられない条件を提示されたため研究を断念せざるを得ないかもしれないという無念の言葉が綴られており「to be or not to be」と結ばれていた。

 俺は手の震えが止まらなかった。ニジヒカリはこの実験に使われた稲を無毒化せずにそのまま栽培したものだと悟った。こんなものを世に出すために浅井さんは俺と五右衛門に、あんなことをやらせたのか。盗んだサンプルと資料を石田本部長に渡し商品化させたというのか。

 木下教授の結びのあとにも一枚ページが有り、そこには「命名ニジヒカリ」と書いた下に五右衛門が最初に資料を盗んだ日付が書かれハートマークで囲んであった。浅井さんの字だった。俺は嗚咽おえつするとはどういう事なのかをみずからそうすることで初めて知った。


 翌日から俺は無断欠勤を続けたが、三日目に差出人のない封書が届いた。俺は封を切り中の便箋を取り出すと、そこには浅井さんの字で、こうとだけ書かれていた。


「浜の真砂まさごは尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ 草々不一」


消印は昨日の日付で場所は舞鶴だった。俺は何の当てもないのに舞鶴へ車を走らせた。二時間ばかり車を走らせて舞鶴についた俺は石田本部長に電話をかけた。

「柴田か。お前今、何処どこや」

「舞鶴です」

「舞鶴か……。それで、なんか用か」

「浅井さんがどこに居るのか知ってるんでしょ」

「それを聞いて、どうするつもりや」

「浅井さんに、どうしても聞きたいことがあるんです、教えてください」

本部長は何も答えなかったが、俺は一つ深呼吸をしてこう続けた。

「ニジヒカリは間違いなくハマイサゴに継ぐ我が社の主力商品になりますね。いや、ニジヒカリは水田でも育ちますから、ハマイサゴをしのぐ主力商品になるかも知れませんよ。ニジヒカリは大事にしましょう」

「お前何が言いたい」

そして更に一呼吸置いて俺は続けた。

「たまには義弟おとうとの頼み事を黙って聞いてくださいよ本部長……。義兄にいさん」

本部長はしばらく黙っていたが、やがて重い口を開き、ある国へニジヒカリの種籾を運ぶために舞鶴から出る船に浅井さんは乗ると言った。

「いつつかまでは聞いてないが、もう発ったあとかもな」

「船をチャーターしてもらえませんか。できるだけ速いやつを」

「追いかける気か、アホが。船は用意したるけどあとは知らんぞ。手配できたら連絡するから、ちょっと待っとけ」と言って本部長は電話を切った。


 しばらくして本部長に指定された場所に行き船に乗り込むと、それこそ何の当てもないのに俺は船を沖に出してもらった。湾内を出て一時間ほどすると、定期便の航路から外れたところを航行する船が見えた。船長に、その船を追うように指示してスピードを上げてもらうと、その船もこちらの船に気がついたのか一旦スピードを上げたが、なぜか停止してこちらの船を待っているようだ。その船に近づくとデッキに人影が見えた。白いワンピースに、つばの広い白い帽子という映画やドラマに出てきそうなちの女性だった。間違いなく浅井さんだ。俺はデッキに出て少しでも近くで確かめようとする。浅井さんは、俺が乗った船が近づくのを、じっと立ったまま待っていた。

「ホントに来ちゃったんだ。会えない可能性のほうが、ずっと高かったのに」

浅井さんは、人前では決して下ろさなかった長い髪をかき上げて微笑んだ。

「ニジヒカリとハマイサゴに遺伝的関連性は無いとわかったら、それ以上は追求しないと思ったんだけど、まさか五右衛門を頼るとはね」

「本部長に俺を監視させてたんですか」

そうでなければ俺がニジヒカリの資料を手に入れてすぐに浅井さんの手紙が届くはずがない。

「あなたが教授と研究してたのはハマイサゴの品種改良ではなく、ニジヒカリの無毒化だったんですね。あれをそのまま世に出してしまったらどんな事になるかわかってましたよね」

「あなたもわかってるでしょ?飢餓問題は解決しちゃいけないの。爆発的に増える人口をどう制御するの?でも目の前で飢えて死んでいく子供を見るのはつらいよね。目の前の飢えた子供を救って、人口が爆発するのも抑えられるニジヒカリは私達人類への福音ふくいんなのよ。ニジヒカリの影響が出るのは最短でも二十年よ。何もしなければ今にでも死んじゃう子に二十年も人生をあげられるのよ。それって悪いこと?」

「その人生の最後が四十日も続く苦しみだったとしてもですか。あなたのような人を、人はなんて呼ぶか知ってますか?マッドサイエンティストですよ!」

「私は石田君に資料とサンプルを渡しただけ。ニジヒカリのことを石田君に教えたのは木下教授よ、スパコンを使わせてもらうためにね。大学は予算が降りなかった研究のためにスパコンは使わせないわ。なんとかごまかして大学のスパコンを使えたとしても、強引な順番飛ばしは木下教授でさえできないことなのよ。だから石田君に頼むしかなかったの。でも石田君は私と同じことを考えたから、最初の解析が終わったあとに、現状のままでニジヒカリを発売させてくれたらスパコンを二年連続で可動させてもいいと教授に言ったの。馬鹿でしょ?そんなこと教授が承諾するはずないじゃない」

浅井さんは船の手すりにもたれ、ワンピースの裾が風に揺れていた。思えば浅井さんがこんな服を着ているのを見るのも化粧をしているのを見るのも初めてだった。

「そしてニジヒカリを作ったのは、あなたなのよ柴田君」

「どういうことですか?」

「あなた学部生のときに、違う種類の稲の胚をすりつぶして混ぜたものを培地で育てたらどうなるかって、お馬鹿な実験始めたわよね。みんな笑ってたけど、お馬鹿な実験でも思いついたらまずやってみるのが科学者として正しい姿勢だと教授が背中押してくれたでしょ」

「ええ、結果は二種類の稲が別々に生えただけでした」

「詰めが甘いのよ。最後まで育ててみれば明らかな違いがわかったのに、あなたは子葉の段階でDNA調べただけで諦めちゃったでしょ。私はあなたが捨てちゃった培地を持って帰って育ててみたのよ」

「どうしてそんなことを?」

「可愛かったからよ」

苗をあの子達と呼ぶ浅井さんらしい発想だと俺は思った。

「あのときに、あなたが実験に使った品種は覚えてる?」

「もちろんですよ。アキアカネとハマイサゴ……」

「そうよ、アキアカネとハマイサゴ。明らかな違いがあったのはアキアカネの方なの。実った稲穂は普通のアキアカネより1.5倍も重かったの」

「1.5倍……」

「そうよ、ハマイサゴと同じ。それからその稲穂を種籾たねもみにして色々実験してみたけど、味はアキアカネのままでハマイサゴと同じ特性を見せたわ。それはあなたが読んだ資料に書かれてたでしょ?」

「そんなはずは……。あの時調べたDNAはアキアカネとハマイサゴそのものでしたよ」

「そこも詰めが甘かったのよ。細胞核だけじゃなく、ミトコンドリアのDNAも調べるべきだったわね。変異したのはアキアカネのミトコンドリアだったのよ。ハマイサゴのミトコンドリアによく似てたわ。あなたの詰めの甘さは私のせいかもね。指導教官として責任を感じるわ」

「でも俺が調べたニジヒカリのDNAはアキアカネのものとは違いましたよ」

「私が柴田君は必ずそうするだろうって石田君に言って、あらかじめサンプルをすり替えさせたのよ。ニジヒカリとアキアカネのDNAが同じだと気づいたあなたが、あなた自身のお馬鹿な実験を思い出さないようにね。石田種苗のラボにニジヒカリのサンプルはもうないわ。ニジヒカリはもう改良する必要もないからね」

「そんな風にして生まれたニジヒカリが、なぜ致死性の毒を持つようになったんですか?」

「わからないわ。それを教授と私が調べてたんだけど、私はそれをやめさせたかったの、福音を守るためにね。ニジヒカリは私が育ててたから石田君に渡す分は充分にあったけど、教授は諦めないだろうから教授の手元にサンプルを残したくなかったの。木下教授ならニジヒカリがあの時の稲だと気づくだろうし、必ずサンプルを手に入れるだろうけど、せめてニジヒカリの出荷までは、あの子達を守ろうと思ってね。でもね、教授はニジヒカリがあの時の稲だとわかっても公表しないと思うの。教授は教え子二人を犯罪者にできるような人じゃないわ。あなたにも辛い思いをさせちゃうかも知れないしね。ニジヒカリの秘密は公表せずに、無毒化の研究を続けるでしょうね」

「やっぱりあなたはマッドサイエンティストだ!」

浅井さんはうつむいて、それには何の反論もせずしばらく黙っていたが、やがてニジヒカリの話を続けた。

「あなたと同じ実験もしてみたけど再現できなかったわ。他の品種とハマイサゴでも試したけど、ニジヒカリのようなものができることはなかった。だから世界中のニジヒカリは全てあなたが作った子の子供達よ」

「その、俺が作った子というのはやめてもらえませんか」

「責任を感じてるの?あなたに責任はないわ。責任があるのは私と木下教授よ。石田君は企業家として普通のことをしただけ」

「毒入りの米を売ることが企業家として正しいことなんですか!」

「正しくはないわ、普通なだけ。毒が入った食べ物なんて、普通に、そこら中で、いくらでも売ってるじゃない。ニジヒカリの秘密を知ってから買いに来た国もあったそうよ」

そして、これで私の話は終わりといった風に浅井さんは俺に聞いた。

「それであなたはどうするの?ニジヒカリの秘密を公表するつもり?ニジヒカリの栽培は、もう世界中で始まってるのよ?そんなことをしたら石田種苗は世界中で訴訟を起こされて莫大な賠償金を請求されるでしょうね。石田君は刑事訴追されるかも。そうなったら石田種苗の株価は大暴落して外資に買収されて全て終わりよ。福音も消されるわ」

俺は答えられなかった。姉の家族を路頭に迷わすどころではなく、甥や姪は人殺しの子供とさえ呼ばれることになるだろう。姉は決して許してくれない。

「あの時浅井さんが、もう引き返せない所まで来てると言ったのは……」

「そうよ、私達はもうニジヒカリを作ってしまっていたの。ニジヒカリの生みの親として責任を感じるなら私と同じごうを背負いなさい。私からの最後の指導よ」

俺は何も言えず、その場で膝をついてしまった。


 あとひとつ聞きたいことがある。いや本当はどうでもいいことなんだ。ただ俺はまだ浅井さんと話しがしたかった。

「あなたがニジヒカリと名付けたんですよね?どうしてそんな名前にしようと思ったんですか」

「五右衛門を連れて逃げるときにね、鴨川の方を振り返ったら虹が見えたの」

浅井さんは思い出し笑いをするように続けた。

「そしたら五右衛門のヒゲが、なんだかライオンみたいだなって。その時に頭の中でオーバー・ザ・レインボウが鳴り始めたの」

「それでこんなことをしようと思ったんですか?虹の彼方に行こうと。あなたがドロシーで俺が案山子かかしですか」

「あなたはブリキの木こりよ。心のないブリキ人形。案山子は石田君かな、彼はあまり優秀な学生とは言えなかったから」

「ずいぶんひどようですね。さしずめ木下教授はオズの魔法使いですか」

「そんなものは居なかったって話じゃなかった?」

俺達は無言のまま互いに目をそらしていた。かなりの時間が過ぎた頃、オーバー・ザ・レインボウが聞こえてきた。浅井さんがスマホで鳴らしているのだ。本当に趣味の悪い人だ。

「浅井さん、これからどうするんですか」

「ニジヒカリの秘密が決して国民に知られることのない国から大学教授として招聘しょうへいされてるの」

「そんなの俺が公表しなくても、いつかバレますよ」

「大丈夫よ、ニジヒカリの影響が出始めるのは、まだ二十年も先の事だし、誰かが関連性を疑ったとしても、それを証明するにはさらに時間がかかるわ。それに、もしバレたとしても私の考えが正しいと子供の時から教育してもらうから平気よ。そういう事ができる国なの。いい響きじゃない、浅井教授」

「あなたなら、この国でもなれたでしょうに。男癖の悪さがなければ今頃准教授だったかも知れませんよ」

浅井さんはしばらく黙ってうつむいていたが、やがてそのまま昔話を始めた。

「教授は私が学部生の時には、まだ准教授だったんだけど、その頃から私に目をかけてくれてたわ。でもね、私はその時まだお子ちゃまだったから彼の気持ちがわからなかったの。私って可愛いじゃない?私に良くしてくれる男なんて珍しくもなかったし彼もそうなんだって思っちゃってたの。でも違ったの。学部四年目に『君は絶対に大学に残るべきだ。君が博士課程を修了するまでには必ず教授になってみせるから、その時は助手として私を支えて欲しい』と彼が言ってくれてね、私泣いちゃった。そしたら彼は『そんなに喜んでくれるのはとてもうれしいが、但しそうとなれば生半可な卒論は審査に出さないぞ』って私の肩を叩いたわ。皮肉なものね、その時私は彼を好きになっちゃた。でもすぐに断ち切って研究に打ち込んだわ。そして私が修士課程の時に彼が教授に昇進して、就職するなんて言い出したら修論は通さないなんて冗談も言われたわ。私が博士号を取った時には『これで私は最高の助手を手に入れた』と言われて、また泣いちゃった。でもね、その時私はもちろん嬉しかったけど、ちょっと悲しいとも思っちゃったの。あの時に一瞬だけいだいた想いが一気によみがえっちゃったの。こんなに長い間私を見てくれてたのに、彼は私のことを女として見てはくれなかったんだって。でもね、それは彼の気持ちを裏切ることじゃない?だから……」

浅井さんの男癖の悪さは、そんなことが理由だったのか。やはり浅井さんは木下教授を愛していた。しかし純粋に師匠として尊敬していたのもまた事実だろう。二つの想いの板挟いたばさみから逃れようとして、わざと教授に知られようとするかのように、次々と男子院生ばかりと関係を持っていたのか。

「それに教授のポストがくって教授が退任するってことでしょ?そんなこと考えたくもなかったのよ。なのに教授はニジヒカリ無毒化の研究中に、この研究が成功したら教授の後任を私にするよう強引に教授会を説き伏せるって言ったの。その時の私の気持ちがわかる?とても寂しかったわ。そして『但し今までのように院生に片っ端から手を出すのはやめろ。付き合うなとは言わないが、せめて一人にしろ。まずは講師にすから、それまでに男関係を整理しておけ』とも言われたの」

「その一人がたまたま俺だったんですか。光栄のいたりですよ。浅井ハーレムの元メンバーから羨望せんぼう眼差まなざしで見られてたんでしょうね」

俺は最大限の皮肉を込めて言った。浅井さんは俺を見て、声に出さず口だけを動かした。


  浅井さんを乗せた船が動き出す。

「ニジヒカリの秘密が明らかになる頃には教授も私も石田君も、この世に居ないかもね。あなただけは長生きして見届けてね」

俺は動き出す船に向かって叫んだ。

「最後に教えてください!なんで俺に手紙なんがくれたんですか!」

浅井さんは少し俯いて微笑んだ。そして顔を上げ、両手を口に添えて俺に向かって叫んだ。

「そんなこともわからないから、あなたには彼女ができないのよ!」

そして笑顔で手を振りながらキャビンに消えた。浅井さんがキャビンに入ると浅井さんを乗せた船はスピードを上げて俺の乗った船から離れて行く。

「どうします、まだ追いますか」

船長が操舵室から出て俺に言う。

「いいえ、もう追わなくていいです」


 浅井さんを乗せた船が遥か遠くに見える頃、俺は浅井さんからの手紙をポケットから取り出し声に出して読んでみた。


「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」


京都に帰ったら、五右衛門にハマイサゴと、この歌のことを話してやろう。


きっと怒るだろうな。


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虹の光 十影 蔵人 @tokagekrand

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