第4話・恋しい人
俺が石田種苗に入社して五年近くが過ぎた頃、石田種苗の新製品ニジヒカリの
五右衛門は師範の免状を取り、師匠に借りていたアパートからほど近い住み慣れた
五右衛門の稽古は完全予約制のマンツーマンで、一時間六千円だと書いてある。こういう事に
サイトにあった地図を頼りに山科の五右衛門の家を訪ねたが、そこは長屋と言うには立派すぎる
「あれは私の師匠の遠縁の者で、なんでも幼い頃に父親を亡くし、再婚した母も、あれが十九の時に亡くなり、義理の父とは一緒に暮らしにくいと師匠を頼って家を出てきたそうどすが、師匠が私にと紹介しとおくれやした、お弟子さんをこの家まで案内してくれたりなんなりと顔を合わせることも多く、身の上話を聞くと、なんやまるで茶々のようなと思う
しばらくして五右衛門が自分で取りに行ったビールの栓を抜いて俺のゴブレットに注ぎながら切り出した。
「なんぞ、お話がおますねやろ」
俺が事の
「まあ、恩人の頼み事ですさかい、断ろうとは思てしまへんけど」
そう言う五右衛門に俺は深々と頭を下げた。
「まあまあ、お顔をあげとおくれやす。ほな、あれが帰らんうちにお話ししまひょか」と言うので俺は早速説明を始めた。本部長のオフィスから資料を盗み出すのは木下邸から盗み出すのとはわけが違う。しかも今回はコピーを撮って、オリジナルを元に戻すという無理難題も頼まねばならないが、俺に知り
「要するに警備システムをハッキングしたらよろしおすねやろ。民間企業の警備システムに侵入するくらい、どうってことあらしまへん。まかしとおくれやす」
あんたやっぱりホントは泥棒だろ。
数日後に公衆電話からの着信があり、出てみると五右衛門だった。五右衛門が俺に電話を掛けて来たのは、華道教室を開いたという連絡をしてきて以来これで二度目のことだ。俺の頼み事のために嫌いな電話まで使ってくれるとは
言われた通り予約を取って稽古をつけてもらい稽古が終わると、五右衛門は先日と同じように同居の女性に使いを頼み、女性が玄関を出ていくと小さくため息をついて言った。
「私には戸籍がないので、あれと結婚してやることがでけしまへん。
さすがに、お華の師匠が「ワテ」ではよろしくなかろうと自分で思ったのか、人に言われたのか、いつの間にか一人称が私に戻っている。
「
「それでも私は幸せもんどす。愛しい女とひとつ屋根の下で一緒に暮らせるやなんて、関白殿下に
そう言うと俺の目を見てこう言った。
「恋しいお人に会われへん、あんさんに比べたら果報者どす」
そしてゆっくりと立ち上がり奥の部屋へ行き、資料のコピーが入った封筒を持ってきた。五右衛門は、俺にそれを手渡す前にこう切り出した。
「柴田はん、実はあんさんに謝らんならんことがおます。私が姉さんに仕事と住まいを探してもろてた頃に姉さんと色々な話をさせてもらいましてな。この時代にも
一呼吸置いて五右衛門は続けた
「柴田はん、あんさんはこれを読んでどないしはるつもりだす?ここに書かれてることは、あんさん一人では抱えきれんもんどすえ」
「俺は……」
「姉さんに会いたいんどすな……。それがあんさんを
俺は無言で
「これには姉さんの
俺はもう一度頷く。
「そしたら持って帰って読んどおくれやす。ここでは読まんとおくれやす。これを読んだ
俺に封筒を手渡すと五右衛門は無言で立ち上がり、出て行けと言わんばかりに玄関の引き戸を開けて俺を見ていた。
「お稽古やったら、いつでも来とおくれやす」
俺は立ち止まり、振り返らずに礼を言って山科駅に向かった。
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