第4話・恋しい人

 俺が石田種苗に入社して五年近くが過ぎた頃、石田種苗の新製品ニジヒカリの種籾たねもみが世界に向けて出荷された。ニジヒカリは強い生命力を持ち、病虫害にも強く、単位面積あたりの収穫量はアキアカネの1.5倍で、しかも美味であるという優良品種だ。ニジヒカリの話を耳にした時、これがハマイサゴの改良品種でなくてなんなんだと俺は驚愕きょうがくした。俺の義兄である開発本部長にそのことを聞いてもまともな答えが返ってくるはずもないので、俺はラボの室長に隠れてニジヒカリとハマイサゴのDNAを比較したが両者に遺伝的つながりは全く無いと言ってよかった。それでも納得できない俺は、石田種苗のどこかにハマイサゴの品種改良データがあるのではと疑い、それは多分、本部長のオフィスなのではと何の根拠もないのに確信した。浅井さんがハマイサゴ関連のものを持ち込むとしたら、まず最初に思いつくのが本部長だろう。俺はその資料を手に入れなければならない。しかし厳重なセキュリティーだとは言えないにせよ、一社員に過ぎない俺が本部長のオフィスから資料を持ち出すのは困難だろう。俺は意を決して五右衛門を頼ることにした。


 五右衛門は師範の免状を取り、師匠に借りていたアパートからほど近い住み慣れた山科やましなで、これもまた師匠が所有する長屋に住み、そこで華道教室を開いているとは聞いていたが、居ない人の声が聞こえるのは気持ち悪いからと携帯を持たないばかりか固定電話もいてないので直接訪ねるしかない。確実に在宅しているのは稽古中だろうが、お弟子さんがいる時もまずいので、どうしたものかと悩んで、ふと思い立ちネットで検索してみると『華道師範 浅井五右衛門』という顔写真まで載せてあるサイトを五右衛門は作っていた。せめて偽名を使えとも思ったが、そもそも五右衛門というのが偽名なのを思い出した。

 五右衛門の稽古は完全予約制のマンツーマンで、一時間六千円だと書いてある。こういう事にうとい俺には、それが高いのかどうかは、わからないが、無理なお願いをするには安すぎる金額だ。『お稽古のご予約』というフォームから、直近で一番遅い時間に空きがある日付で予約しておいた。


 サイトにあった地図を頼りに山科の五右衛門の家を訪ねたが、そこは長屋と言うには立派すぎる棟続むねつづきの貸家の左から二軒目だった。引き戸を半分ほど開けて、ごめんくださいと声をかけると着物姿の若い女性が膝をついて出迎え「ご予約の柴田さんですね」と座敷に通された。程なくふすまが開いて五右衛門が手をついてお辞儀をしてから、顔をあげて俺を見るや「いやあ、柴田はんやおへんか。名字しか存じ上げておりまへんどしたし、ようあるお名前やさかい、まさかと思いましたが、まあまあよう来とおくれやした」と、えらい歓迎ぶりで恐縮した。それから稽古の予約をしておいた手前、一通り初回の稽古をつけてもらい稽古を終えてからさわりのない世間話をしていると、先程の若い女性が盆に瓶ビールを一本と背の高いゴブレットを二つ乗せて持ってきて俺と五右衛門の前にゴブレットを置き、ビールの瓶と栓抜きを、うやうやしく五右衛門に手渡した。栓を抜いてビールをぐのは主人の仕事ということだろうか。まるでお点前てまえのようだなと思っていると、五右衛門が若い女性になにやら使いを頼んで、女性は「失礼いたします。どうぞごゆっくり」とお辞儀をして玄関から出ていった。女性が出ていくと五右衛門は

「あれは私の師匠の遠縁の者で、なんでも幼い頃に父親を亡くし、再婚した母も、あれが十九の時に亡くなり、義理の父とは一緒に暮らしにくいと師匠を頼って家を出てきたそうどすが、師匠が私にと紹介しとおくれやした、お弟子さんをこの家まで案内してくれたりなんなりと顔を合わせることも多く、身の上話を聞くと、なんやまるで茶々のようなと思ううちに他人とは思えんようになり、その、なにしましたと申しますか、その、なんどすわ」と口ごもりながら言った。今日は頼み事をする身だから「相変わらずお盛んなようで」という言葉は飲み込んだが「よく破門になりませんでしたね」とは言ってしまった。

 しばらくして五右衛門が自分で取りに行ったビールの栓を抜いて俺のゴブレットに注ぎながら切り出した。

「なんぞ、お話がおますねやろ」

俺が事の顛末てんまつを話し、無理なお願いを切り出そうとすると「あんさん、また私に盗賊の真似事をしろと言わはりますのんか」と真剣な口調になったが逆鱗げきりんに触れたというわけでもなさそうだった。

「まあ、恩人の頼み事ですさかい、断ろうとは思てしまへんけど」

そう言う五右衛門に俺は深々と頭を下げた。

「まあまあ、お顔をあげとおくれやす。ほな、あれが帰らんうちにお話ししまひょか」と言うので俺は早速説明を始めた。本部長のオフィスから資料を盗み出すのは木下邸から盗み出すのとはわけが違う。しかも今回はコピーを撮って、オリジナルを元に戻すという無理難題も頼まねばならないが、俺に知りる限りの警備システムの情報はこの程度だと申し訳なさそうに言うと五右衛門がこう言い放った。

「要するに警備システムをハッキングしたらよろしおすねやろ。民間企業の警備システムに侵入するくらい、どうってことあらしまへん。まかしとおくれやす」

あんたやっぱりホントは泥棒だろ。


 数日後に公衆電話からの着信があり、出てみると五右衛門だった。五右衛門が俺に電話を掛けて来たのは、華道教室を開いたという連絡をしてきて以来これで二度目のことだ。俺の頼み事のために嫌いな電話まで使ってくれるとはがたい限りだと礼をいうと「まあまあ、恩人の頼み事ですさかい」と先日と同じことを言い「次のお稽古の時にお渡ししますさかいに、またフォームからご予約しとおくれやす。ああ、そうそう、Googleアカウントでログインできるようになりましたさかい便利になりましたえ」と続けた。


 言われた通り予約を取って稽古をつけてもらい稽古が終わると、五右衛門は先日と同じように同居の女性に使いを頼み、女性が玄関を出ていくと小さくため息をついて言った。

「私には戸籍がないので、あれと結婚してやることがでけしまへん。不憫ふびんどすわ……」

さすがに、お華の師匠が「ワテ」ではよろしくなかろうと自分で思ったのか、人に言われたのか、いつの間にか一人称が私に戻っている。

いとしい女に花嫁衣装も着せてやれん自分が情けのうなって、あの時ほんまに釜茹でになってしもたほうが良かったんやないかと思たりもします」と憂鬱な面持おももちで言った。この男にはそんな悩みもあるのだなと今さら気がついた。若いくせに、取って付けたような、こてこての京言葉を話すお調子者のようなキャラだと思い込んでいたが、考えてみると、この男の人生は壮絶なものだ。天下人が思い焦がれる人を我が物にし、盗賊の汚名を着せられ処刑されたかと思えば四百年後の時代に飛ばされ、本当に盗みの手伝いをさせられたりとまさに波瀾万丈の人生だ。

「それでも私は幸せもんどす。愛しい女とひとつ屋根の下で一緒に暮らせるやなんて、関白殿下にとらえられた時には夢にも思わしまへなんだ」

そう言うと俺の目を見てこう言った。

「恋しいお人に会われへん、あんさんに比べたら果報者どす」

そしてゆっくりと立ち上がり奥の部屋へ行き、資料のコピーが入った封筒を持ってきた。五右衛門は、俺にそれを手渡す前にこう切り出した。

「柴田はん、実はあんさんに謝らんならんことがおます。私が姉さんに仕事と住まいを探してもろてた頃に姉さんと色々な話をさせてもらいましてな。この時代にもいくさは世界中で起きていて、私が知ってる戦国時代よりも、もっとひどい有様ありさまの国がたくさんあって、飢えて死んでいく子らも数え切れんほどおると。この国が抱えてる少子高齢化問題ちゅうのも聞きました。私はそれを解決はでけんけども、このお米はそれをなんぼかでもマシにしてくれるんちゃうかなと、だからこのお米を守りたいんやと姉さんはそう言うてはりました。そして柴田はんには、この話はせんといてくれとも言わはりました。しかしまさか、あんさんを置いて行かはるとは思てしまへなんだ。そないな事を知ってたら、なんぼ姉さんの頼みでも断りましたわ。ここに書かれてることも薄々聞いてましたさかいに申し訳ないけど先に読ませてもらいました」

一呼吸置いて五右衛門は続けた

「柴田はん、あんさんはこれを読んでどないしはるつもりだす?ここに書かれてることは、あんさん一人では抱えきれんもんどすえ」

「俺は……」

「姉さんに会いたいんどすな……。それがあんさんをだまして裏切ったお人でも会いたいんどすか?」

俺は無言でうなずいた。

「これには姉さんの居所いどころの手がかりになるようなことは何も書いてまへんけど、それでも読まはりますか?」

俺はもう一度頷く。

「そしたら持って帰って読んどおくれやす。ここでは読まんとおくれやす。これを読んだあとの、あんさんの顔は見とうない」

俺に封筒を手渡すと五右衛門は無言で立ち上がり、出て行けと言わんばかりに玄関の引き戸を開けて俺を見ていた。いとまを言って立ち去る俺の背中に五右衛門が声をかけた。

「お稽古やったら、いつでも来とおくれやす」

俺は立ち止まり、振り返らずに礼を言って山科駅に向かった。

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