砂糖玉の月
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砂糖玉の月
夜空を見上げると、純白の月があった。
黒く透明な夜空に、漂白されたように白い月が浮かんでいる。
夜の世界でただ一つ、白を湛えているその月を見上げているのは、私ただ一人だった。
私は草原に膝を抱えながら座っている。ぬめるような、重い夜の風に頬を舐められながら、砂糖玉のような月を見上げている。
「今日も、一人か」
暦の上ではまだ八月のはずで、本来ならば猛暑に茹るような熱帯夜が私を覆っているはずだったのだが、それももう、とっくに壊れてしまっていた。今では健全な夏の暑さだけが残っている。
「月がきれい」
私はいつものように、唐突に無意味にそんなことを呟いてみた。
応えてくれる人はいない。
「はは、虚しいなぁ……」
一人なのに、孤独なのに、私は夜空を見上げている。
一人なのに、孤独なのに、涙は出ない。
一人なのに、孤独なのに、私はまだ生きている。
こんな夜は、自分は何故生きているのだろうかと否応なしに考えてしまう。自分にそんな価値は無いなんてことは、とうに分かっているのに。
「生きている理由って、何だろう……私は何がしたいんだろう」
鈍い頭を使って考えてみる。
人生には目標が必要なのだと、えらい人が言っていた。生きる糧が、心臓を回す燃料が必要なのだと言っていた。私はそれを考えた。何が、私の心臓を動かしているのだろうか。
膝を抱えている腕の先、手の指を絡ませたり、離したりする。何のために生きているのだろうと考える。
何度も考えた。しかし答えは出ないのだ。
「理由なんて、思いつかないな……」
ならば、と私は自分と同じ立場の他人を想像する。
私は人間で、まだ子供で、そして女の子。十六歳の、うら若き少女。
遊んで、勉強して、恋をするのが仕事の生き物。
「恋、か」
私はほぅ、と息を吐くように呟く。
確かにそうかもしれないと思った。私くらいの女の子の生きる糧なんて、それくらいのことしかないのかもしれない。夢想的で、刹那的な感情を享受することに命を燃やす。そう在るのが正解なのかもしれない。
いや、きっとそうなのだ。それこそが正解で、私の生きる意味なのだ。他人と同じだ。私は、恋をして生きよう。それが私の今を、十六歳を生きる価値となってくれる。
それが分かった瞬間、身体がぽうっと温かくなったような気がした。冷たい心臓が僅かながら熱を帯びた。降り注ぐ淡い月光にも微かに温もりを感じた。
私は二度頷いて、今の発見を心に留める。
草原に座ったまま、私は白いTシャツの胸ポケットから『端末』を取り出す。
「恋を、しなきゃね」
『端末』の側面に取り付けられた小さなボタンを押す。画面が白く光り、起動する。
きっと、誰かが今遠くから私のことを見たら、この『端末』の光は月のように感じられるだろう。唐突に現れた大地の月の灯り。私にはその光は強すぎたから、少し光量を弱める。
それから幾つかの操作をして、最後に九桁の番号を打ち込む。『端末』の操作には慣れていたし、もちろん番号も覚えている。
番号を打ち込むと、呼び出し音が鳴った。
ピー、ピー、ピー……。
『もしもし? どうかしたかー?』
『端末』から声がした。私の体温は否応なく少し上昇する。
「ん、ごめん。特に用はないんだけど、声聞きたくて」
すると『端末』の中の声は言う。
『元気にしてるか? 俺は一緒に居れないのが寂しいよ……』
「うん、そうだね……」
私は彼の声に意識を集中させる。『端末』の中の彼は、一体どんな感情で言葉を紡いでいるのだろうか。他の女子なら、彼の言葉をどう受け止めるのだろうか。そして、どう返答するのだろうか。私はそれを考える。
『なぁ、良かったら、今度映画見に行こうぜ。えっと、なんだっけ……お前が見たいって言ってたあの映画。春先公開だったろ?』
「うん、いいよ。楽しみにしとく」
映画か。私はこの『端末』を使って映画をよく見るが、誰かと一緒に見たことは一度もない。だからそれはとても新鮮な経験に思えた。
『そうだな……来週の土曜日は予定、空いてる? まぁ観たかったら、で良いんだけど。俺は空いてるから、お前が決めてくれて良いよ』
彼は恥ずかしそうに笑っていた。私もつられてくすりと笑みを漏らしてしまう。
「行きたいに決まってるじゃん。来週の土曜日だね。わかった」
『それじゃあ、考えといてくれ。前向きに頼むよ。じゃあな』
「うん。ばいばい」
つー、つー、つー。
画面を見ると『番号を入力してください』の文字。
「ふぅー……」
私は夜空を見上げた。そこには異様に白い月があった。
恋。
それは私を生かす価値となってくれるもの。
だから、絶対にその感情を理解しなければならない。
恋とは、相手を深く知ることだ。
恋とは、相手と思いを共有することだ。
「もっと、彼の事を知らなくちゃ……」
私はもう一度『端末』に同じ九桁の番号を入力する。彼のことが知りたくて、焦った指先が番号を押し違える。
何とか正しい番号を入力すると、再び呼び出し音が鳴った。
ピー、ピー、ピー……。
彼の声がした。
『もしもし? どうかしたかー?』
私は少し前かがみになりながら応える。
「ご、ごめんなさい、何度も」
『端末』は言う。
『元気にしてるか? 俺は一緒に居れないのが寂しいよ……』
「うん、元気だよ。貴方は?」
『なぁ、良かったら、今度映画見に行こうぜ。えっと、なんだっけ……お前が見たいって言ってたあの映画。春先公開だったろ?』
「……そうだね」
『そうだな……来週の土曜日は予定、空いてる? まぁ観たかったら、で良いんだけど。俺は空いてるから、お前が決めてくれて良いよ』
「うん」
『それじゃあ、考えといてくれ。前向きに頼むよ。じゃあな』
「うん……」
再生を終え、『端末』は沈黙してしまった。『番号を入力してください』と無機質な文字が画面に並んでいる。
私は画面を見ながら考える。
この、『端末』の中の記録に残っている彼は、誰と、一体どんな恋をしていたのだろうか。
どういう風に、恋人と生きていたのだろうか。五年前、ウイルスに侵されて死んだ時も、恋人と一緒だったのだろうか。
そう。五年前までは、この世界には普通に恋があったのだ。
突如世界中に蔓延したウイルス。人々はそのウイルスに感染し、死亡した。そして社会は崩壊し、消滅した。
人類は文字通り滅亡した。ただ一人、この私を除いて。
「…………」
五年前のことは今でも覚えている。
そのウイルスは湧き出るように世界中で発生し、瞬く間に人類を余すことなく自らの支配下に置いた。感染し、発症した場合の致死率は百パーセント。そして感染すれば発症は免れない。
世界中が滅亡する自分たちに絶望していた。
そんな中、ただ一人一向にウイルスに感染しなかった人間がいた。私だ。私は政府によって保護され、隔離された。もちろん、それは感染を防ぐためだ。だから本当は私が隔離されたのではなく、私以外の全ての人々が私から隔離されたというべきなのかもしれない。
私の存在は国家機密として扱われた。人々は感染を免れた人間が存在しているなんてことは、死ぬその瞬間まで夢にも思わなかっただろう。一度当時私の監視員だった政府の人間に聞いてみたが、外国でも私以外に感染を免れたケースは報告されていないらしい。
私の存在が隠蔽されたのは、もし感染していない人間が存在すると世間が知れば、世界中が私に嫉妬して憎悪を向けると思われたからだ。
「どうしてお前だけ生き残るんだ。それは卑怯だ! お前も感染して、死ぬべきだ。全員平等に死ぬべきだ……」というふうに。
日本政府は、相手が例え米国大統領であろうと、他国にそれを漏らすことを許さなかった。
だから私は隔離され、人々が次々に死に絶えていくのを黙ってみていた。そして私は最後の人間になった。
『端末』はそんな私が人類滅亡後を生きるために造られた道具だ。日本政府はインターネット上に存在したあらゆるデータを蓄積したクラウドを作成し、そこへアクセスするデバイスとしてこの『端末』を作った。クラウドには映画や音楽はもちろんのこと、人々の通話記録などもアップロードされている。その記録は九桁の番号が割り振られ、『端末』にその番号を入力することで再生することができる。
この『端末』の他にも、政府は私が生きていけるよう、あらゆる手を施してくれた。食料、『端末』のための電力。私は五年前までと比較して、今の生活で不自由を感じたことはあまりない。ありがたい話だ。
しかし全ては私のためであり、人類のためでもある。
有終の美、という言葉がある。
私が、人類最後の人生を、人間らしく生きるため。世界に託された命として、相応しい生きる意味を見つけるため。これはいわばそのための参考書のようなものなのだ。
だから。
私は何としても恋という感情を理解しなければならない。そうしなければ私の人生に意味が無い。私は何としてでも恋をして、十六歳の少女らしく生きなければならない!
私はもう一度記録を再生する。
『もしもし? どうかしたかー?』
何度も聞いた彼の声がする。
私は彼の思いを、恋を理解しようとする。
もう一度再生する。
理解しようとする。
もう一度再生する。
理解しようとする。
再生する。
再生する。
再生する。
何度も、何度も再生する。
何度も何度も、何度も何度も何度も何度も………………。
なのに、私には―――
「うう」
呻き声が漏れた。
そう。理解できないのだ、私には。どうしようもなく。何度シミュレーションしても、私は何も得ることができなかった。
それじゃあ、と私は呟く。
「……私はもう、とっくに死んでいたんだ」
そう言ってしまった瞬間、私の中で張りつめていた何かが音を立てて切れた。
心を支えていた芯が折れる。
私の感情は、もう真っ白だった。
縋るように空を見上げた。
砂糖玉の月だけが、私を見ていた。
※
調査隊の男が発見したのは少女の死体だった。
かつてアメリカ人だったその男は英語で嘆いた。我々はまた一人、生き残りを救うことができなかった。人類再起への希望のパーツはまた失われてしまった。本当に残念なことだ、と。
感染を奇跡的に免れた人間は、実は世界中に点在していた。しかしその存在は例外なく国家により隠蔽されてしまっていたのだ。だから隔離されていた側も他国に自分と同じような生き残りがいるとは知らなかった。その結果、生き残ったとしても、人間が自分一人しかいないことに絶望して自死してしまったというケースが調査隊では何度か報告されていた。
男が死なずに済んだのは、たまたまアメリカに三人も感染を逃れた人間がいたからだった。彼らは最初から自分以外に生き残りがいると知っていたのだ。明暗を分けたのは、それだけの違いだった。
男は少女の死体に小さな花を添えた。
死体の腐敗は少ししか進行しておらず、死後それほど時間は経っていないことは容易に考えられたが、男はそれを考えないようにした。
死んだ人間は生き返らない。早く忘れて次の生き残りを探しに向かわなければ、また同じことが起こる。
男は十字架を切ってからしばらく黙祷した後、少女の死体に背を向けた。
砂糖玉の月 未読 @saori-ust
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