この街に、夏がくる頃
藤光
この街に、夏がくる頃
低く垂れ込めた灰色の雲の下に広がる街は不機嫌そうに蒸し暑い午後を抱えていた。
高台にある新幹線の高架駅へと続くエスカレーターから眺める街のビル群は、低く垂れ込めた雲を映して鈍い色の海を背景に、くすんだ灰色を晒していた。
暑さに閉口した娘婿が「飲み物を買ってきます」とプラットホームから階段を降りて姿を消すと、不安げな表情で小さな赤子――
「お母さん、東京へ帰りたくないよ」
神戸ではじめての出産を終えて一ヶ月、これから美嘉は東京の自宅へ帰るのである。
出産のために里帰りしていたあいだは、持ち前の呑気さを発揮してリラックスできていた美嘉も、これから夫の
「何言ってるの、しっかりしなきゃ。これからはあなたが鈴の『お母さん』なんでしょ」
「あたしにできるかな」
「大丈夫よ。みんなそうしてきたんだから」
そして娘の背中に、支えるように手を添えた。そうしてあげると美嘉は安心するのか落ち着いてよく眠る子供だった。
そうだ。三十年前、絵里子は生まれたばかりの美嘉をこうして支えるように抱きながら、このプラットホームから九州の郷里へ戻る母を見送った。
――みんなそうしてきたんだからね。
これからの育児に不安があると心が落ち着かなかった絵里子を、母はそう言って落ち着かせてくれた。そして平気だよと母は笑ったのだ。
今日と同じように暑い日だった。
携帯電話もインターネットも、まだその噂すら聞いたことのなかったあの頃、絵里子は夫とふたり見知らぬ土地――神戸で子育てをすることがとても不安だった。
母にはもっとそばにいて欲しかったけれど、郷里に残してきた弟や妹、老いた祖父母の面倒を見ながら、父を助けて田畑で働かなければならない母をこれ以上この街に引き留めるわけにはいかなかった。
絵里子の顔がよほど不安そうに見えたのだろう。自分の旅行鞄を探っていたかと思うと、母はひとつの御守りを取り出して渡してくれた。
白くて小さな布袋に金字の刺繍。神社の御守りだった。遠く絵里子の住む神戸と九州の郷里とを往来する母を心配した家族が渡した御守りだろうか。
――御守りだよ。
みんなの思いが詰まってるからね。絵里子と美嘉を守ってくれるはずだよ。
母はその白い御守りを絵里子の手に押し付けながら、滑り込んできた新幹線に乗り込んだ。
三十年前、この場所での出来事だ。
絵里子は肩に下げたバッグから白い小さな御守りを取り出した。
「はい。御守りよ。不安なことがあったら、いつでもメールして。お母さん、飛んでいくから。それまでは御守りを家族だと思って待ってて。
「美嘉は、一人じゃないでしょ。由之さんがいるし、お母さんだってお父さんだっているわ。きっと大丈夫」
手渡された御守りをまじまじと見てから、美嘉は不思議そうに絵里子へ視線を移した。それはそうだろう、だって――。
『旅行安全御守』
絵里子が母から受け取り、いま美嘉へ手渡した御守りは「旅の御守り」。もちろん、三十年前、絵里子の母が九州の片田舎から旅すること六〇〇キロの安全を祈って家族から手渡された御守りだったに違いない。
「でもね――」
人生は、旅の道行きと似ていると思う。順調に旅程をこなせる晴れた日もあれば、突然のアクシデントに潮待ちを強いられる荒天の日もある。新しい出会いに胸が高鳴る日もあるれば、突然の別れに悲しい涙を流す日もあるのだ。
この白くて小さな御守りは、そんな絵里子と旅を共にしてきた人生の御守りだ。そしてこれからは、美嘉と生まれたばかりの鈴を見守ってゆく御守りになるだろう。
「そうなんだ……。ありがとう」
やっと笑顔を見せた美嘉がそう言うと、新幹線の到着がアナウンスされた。ポリ袋にペットボトルを何本も買い込んだ由之が駅の階段を駆け上がってくる。旅立ちのとき。これまでふたりだった美嘉たちが、初めて三人家族になって出発する瞬間が近づいていた。
新幹線はあっという間に小さくなって絵里子の視界から消えていった。あっけなく美嘉たちは行ってしまった。少し寂しいかもしれない。
そんな絵里子の携帯電話に着信音。
「もしもし――。母さん?」
ううん。寂しくなんかない。いまでは遠い遠いと思っていた九州の郷里ともすぐ繋がれる。
「うん――そう。美嘉たち、東京へ帰ったよ」
見上げると架線の向こうに雨雲を割って、青い空と真っ白な入道雲が姿を現しはじめていた。じめついた梅雨がようやく明けようとしている。
「ねえ、母さん。涼しくなったら、東京へひ孫の顔を見に行こうよ」
電話越しに応えた母の声が弾んでいたことは、言うまでもない。
帰路――。日差しを受けて神戸の海は青い輝きを取り戻しはじめていた。絵里子の暮らす街に夏がやってきた。
この街に、夏がくる頃 藤光 @gigan_280614
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