閑話:左右往来異聞

*竹枝一夜(ちくしひとよ)



「失礼致します」


 ようやく唐紙の向こうから掛かった声に、男はとろりと相好を崩した。独り舐めていた盃を卓に置き、機嫌よく応、といらえる。

 音もなく一人の青年が滑り込んできて、後ろ手に唐紙をてた。男はましらのごとき顔へさらに深々と皺を寄せて、笑い混じりに青年をなじる。


「《しち》どの、待ち草臥くたびれたぞよ」

「申し訳ありません。上等の着物に慣れぬゆえ、手間取りました」

「おう、それよ。……ささ、もそっと近う。この老いぼれに佳き姿を拝ませておくれ」


 宵の口はとうに過ぎているが、そういう趣向なのか座敷には行灯のほのかな明かりしかない。翁と呼んでも差し支えない齢の男にとっては、眼を塞がれているのと大して変わらないだろう。

 待ち切れぬと弾んだ声に急かされ、七屋は小さく苦笑しながら男の傍らへ寄った。

 いささか強引とも云える力で、乾いた手が七屋の痩せた腕を引く。そのまま、卓上の置き行灯をぐいと顔前に突き出してきた。明かりに照らされた七屋の姿に、男は満足げな顔で頷く。


「やはり思うた通りよの、よう似合うておる」


 いくら薄暗い行灯の光といえど、いきなり射られればそれなりに眼が眩む。

 とはいえ男の方に悪気はない。細やかな機微を不得手とするきらいはあるものの、芯は気の好い性質たちである。

 そもそもそうでなければ、七屋はこの座敷へ来なかっただろう。たとえ情報を得るためとて、下衆な相手に身体をくれてやる気はさらさらない。

 七屋は眩さに眼を細めつつも、そうと悟らせない所作で行灯を預かり卓に戻した。男は七屋のよそおいにすっかり満悦した風で、飽かずそのなりを眺めている。

 七屋が身にまとっているのは、今夜のためにと男が贈って寄越したものだ。

 深めに染め出した青竹色のひとえに、涼しげな白緑びゃくろくの角帯を締める。単にも帯にも地模様はなく簡素だが、それゆえにしゃっきりとした七屋の姿勢の好さが際立った。

 凛然と端座するさまは、まさに清々しく生い立つ青竹そのものである。器量自体は取り立てて端整というのではないものの、清洒な佇まいがどことなく眼を惹く青年であった。

 男は、なおも七屋の姿に見入っている。七屋の方はしばし男の視線を受け止めていたが、やがて耐え切れなくなった様子で口元を歪めた。


「……そのようにご覧にならないで下さい。つくづくと見て面白い顔でもないでしょう」

「《七屋》どのは、己をよく判っていなさらぬな。さように媚びぬところこそが、儂のような輩にとっては堪らぬのよ」


 男は愉しげに云ってにやりとした。七屋が申し出る暇もなく、自ら銚子で酒を酌む。上等なものなのだろう、芳しい香りがふわりと周囲に立ち昇った。

 男は気持ちよさげに盃を干し、満ち足りた顔で唇を舐める。そして今度は七屋に向かって、軽く銚子を振ってみせた。


如何いかがかな」

「……頂戴します」


 七屋は会釈して盃を手に取った。艶めく丹塗りの器に、澄んだ酒が注がれる。

 なみなみと溢れんばかりのそれを恭しく捧げ持ち、口づけた。喉を滑る液体は意外にも相当な甘口で、まさに甘露といった味わいである。その見目から勝手に辛もの好みと決めていた七屋は、意表を突かれる思いがした。

 一瞥すれば、男はそれを見透かしたように羞恥はにかんだ顔をする。この顔にはさぞ似合わぬとお思いであろ、との言葉に思わず首肯した。

 男は特に気分を害したようでもなく、声を上げて笑う。それからしばし、差しつ差されつ盃を交わした。



 いつの間にか、銚子の酒はほとんど失せていた。

 ふと、七屋のぶちがほんのり染まっているのを見とがめて、男は眼福と悦ぶ。七屋は決まりの悪い思いで云い返した。


「そう仰る旦那様こそ、お顔が赤くなっておいでなようですが。……平気ですか」

「まだまだ、使い物にならぬほどには酔うておらぬよ。顔が赤いはこれ道理ぞ。以前そなたにもお話したであろ、儂は正しくから渡りの大猩々にて候」

「そうでしたね」


 ちらりと含みを持たせた問いにも、男は呵々として笑うばかりである。暖簾のれんに腕を押している気になって、七屋は揶揄するのを早々に諦めた。

 男が猩々であるというのは、確かに聞いたことがある。

 かつて罪を犯した仲間を庇って追放され、ままよと自棄やけの覚悟で海を渡った。その後も苦労に苦労を重ねたが、何とかこの国で成功して洛中有数の大商人となる幸いを得た。まこと運の好いことよ有り難や、と云った一代記を、滑稽な語り口でってみせたことがあったのである。

 芝居じみた口調だったからどこまでが真実やら判らないが、なるほど男の顔は大猿に似ているし、髪も眼も酸漿ほおずきの映えたような色をしている。何と云ってもここはの世なのだから、どんな奇怪がいてもおかしくはない。

 七屋の盃が止まっているうちに、男は最後の一献を呑み干したようであった。とんと小気味よい音を立てて器を置き、七屋がそれと気づいたときにはもう手首を掴まれていた。

 揺らぎ、七屋の手に残っていた甘露がわずかに零れる。しかし男はそれにも頓着せず、七屋のおとがいをくっと持ち上げた。覗き込んでくる眼は存外に真摯である。


「さて《七屋》どの。……本当に宜しいか。今ならまだ、帰して差し上げられまするぞ」


 手首を掴んではいるが、男の言葉に嘘はなかろう。この瞬間に七屋が厭だと抗えば、あっさりと手を放すのに違いない。

 その気遣いが、七屋には申し訳なくも滑稽に思われる。初物ではないのだ、男とて噂は耳にしているはずである。

 恐らく、男は七屋を止めたいのだろう。

 付き合いはそう長くないが、男が七屋を歳若い友人として親しんでくれていることは感じていた。商いのうえで助けられたことも幾度かある。自惚れでなければ、七屋の正気とも思われぬ足掻きに心を痛めているに違いない。

 この旦那もあれと同類か、と七屋は胸中で苦い思いを噛みしめた。

 桜の下に立つ伸びやかな青年の姿が、脳裏にちらつく。彼は昔から変わらず、真っ直ぐにしたたかに七屋の後を追ってくる。かつてはただ純粋に、今は七屋を自らの元に引き戻さんとして。

 だが、賽はとうに投げられているのである。全てを捨ててもと腹を決め、実際そのようにしてこちら側へ来たのだった。今さら、立ち止まることなど不可能だ。

 七屋は一度眼を伏せると静かに口元を緩め、はつと挑むような眼をして男を見上げた。


「……お戯れを。この一夜、倦むほど長いものとしてお過ごしになるつもりなど、はなからありはしますまい」


 七屋は陳腐な芝居がかった台詞回しを、あえて使った。ここから先、彼と己は友人でも知己でもない。秘めごとを介して取引する相手である。

 その線引きを、男も了解したのであろう。一瞬眉をひそめた後、男も大仰に意地の悪い笑みを浮かべた。


「何、少しばかり《七屋》どのの心を探ってみただけのこと。懐に飛び込んできた山鳥を手放す猟師など、ありはせぬよ」

「山鳥とは、この夜に似つかわしくないことを仰る。……あれは独り寝に啼く鳥と決まっています」

「おう、これは忌むべきことを云うたの。では、天に在りては願わくは比翼の鳥とでもうそぶこうぞ」


 男はおとがいに添えていた手を喉まで滑らせ、つうと一撫でして七屋の震えを愉快がる。それから七屋の手にしていた盃を取り上げて、立ち上がった。

 卓を挟んで唐紙を閉てた向こうには、続きの座敷がある。からりと唐紙を滑らせれば、畳敷きに一組の床が延べてあった。値の張りそうな白絹である。枕元に置かれた行灯が、うっすらとあでやかに光沢を浮かび上がらせていた。

 それにしても、ただの絹にしてはやけに光を弾く。七屋が近づいてみたところ、掛け布団に銀糸で縫いとりがしてあるのだった。蓮の花の紋様が、こまごまと精緻に刺された逸品だ。

 それをじっと眺めている七屋を、男が抱えるようにして床に押した。上物の布団はふかりと七屋の身体を受け止めたので、無様に頭を打つことはない。

 だが舌を噛みそうになり、七屋は恨めしげな視線を男に向けた。男は眉を下げ、宥めるように七屋の頭を撫ぜる。そのまま髪をかき交ぜつつ、酒に火照った顔を寄せてきた。

 舌と共に、酒の香が身体の内へなだれ込む。しかし、それは御互い様というものであろう。七屋は気息を合わせんと努めるが、さすがに年の功には敵わない。それなりに手管を身につけていたはずだったものを、軽々と覆された。

 口を離した男は炯々たる酸漿の眼を据えて、七屋の屋号を呼ぼうとする。それを途中で気が変わったものか、はたと止めて口惜しそうに唇を吊り上げた。


「……床を共にせんとするに、いつまでも屋号で呼び合うは味気ないのう。《七屋》どの、そなたの名を教えては下さらぬか」


 あくまでも元は商いを通しての知己だったから、これまで互いに屋号しか名乗ってこなかった。

 七屋はしどけなく力の抜けたまま、しばし黙考する。それからふと思い至った顔つきで、濡れて色づいた唇を開いた。


「では、嘉魚いわなとでもお呼び下さい」

「嘉魚とな。……まさに悪食よの、態々わざわざ老いさらばえた猩々に喰らいついてかかるとは」

「ご冗談。ひ弱な魚を耽々と狙うておられますは、旦那様の方でしょう」

こきぞ。さように呼んでおくれ」

「……深緋様」


 その名を口にのぼせれば、深緋は鷹揚に頷く。

 無論、告げたのは互いに偽りの名である。奇怪妖異の混交する左の世では、呪物まじものを得手とする者もいれば剛力の持ち主もいる。各々いらぬ衝突を避けようと思うなら、易々とまこと名を教えないのが賢明であった。

 深緋は嬉しげな様子で、幾度も嘉魚の名を呼ばう。

 たとえ偽りのものとはいえ、名を知るというのは相手の心に入り込むことである。ためらいなく寄せられる好意に少しばかり戸惑いつつ、嘉魚もまた乞われるまま、男の名を呼んだ。

 深緋はねんごろな手つきで嘉魚に触れる。嘉魚も積極的というのではないが、拒むことなく受け入れ応えた。梅雨の夜のこまやかな深まりと共に、それは次第に密なものへと高まってゆく。



 さらさらと水のせせらぐ音が聞こえて、嘉魚は眼を醒ました。開け放した障子窓から、涼やかな風が入り込んできている。

 床から身を起こすと、節々が鈍く痛んだ。狼藉をはたらかれたわけではないが、やはり体躯の違いは相応の負担に繋がったようである。

 とはいえ深緋はそれなりに後の身なりのことまで構ってくれ、気の滅入るような不快感はない。嘉魚は寝乱れた浴衣を整え、窓辺に寄った。

 河岸かしに建つ楼である。ぼんやり外を眺めていると、瓜を齧ったときに似た川の匂いが気紛れにまといつく。ようやく夜の明け初めた頃合いで、辺りはまだ清澄な青さに沈んでいた。

 西の方角には、白々とかそけき有明の月が傾きかかる。頬を撫でる夜明けの川風は、水辺ながら割合にさらりとしていた。どうやら今日は、梅雨の晴れ間となりそうである。


「……嘉魚どの」


 後ろで、未だまどろみから醒め切らない声がした。嘉魚が振り向いてみれば、深緋が頭を掻きながら近づいてくる。

 少し横にいざって隙を作ると、深緋はどかりとそこに坐した。寛いだ様子で大きく欠伸あくびし、それから眠たげな眼を嘉魚に向けてからかいかける。


「やはりお若いのう、休んだのは相当遅い刻限であったに」

「深緋様こそ、……昨晩ゆうべは随分、お元気でいらした」

「力だけは、昔から有り余っておったでな」


 嘉魚がいささか皮肉混じりに眼をくれれば、割れ鐘の籠もったような含み笑いを返される。

 それから深緋はうっとりとため息を漏らし、視線を虚空へと遣った。酸漿のあかを持つ眼が、柔らかにまろく融ける。


「それにしても、まこと極楽往生を遂げた心持ちであったことぞ」

「さようですか」

「すげないおのこよ。そこがまた、好いのではあるがの」

「それは、……深緋様の方こそ、嘉魚と名乗られるべきでしたね」

「何ゆえ」

「私なぞより余程、悪食でいらっしゃる」


 深緋は眼をしばたかせ、それからからからと愉しげな声を響かせた。

 大笑したことですっかり眼も醒めたと見え、その朱色は爛々と明けに冴える。力強い視線の先で、空は今こそ、ほのぼのとたえな色合いに移り始めた。

 静謐の青にあてなる紫がたなびき、その後かぎろひの燃え立つごとく鮮烈な紅が走る。焔は大いなる空を舐め、一面に焼き尽くしたかと思えばしばらくの後、何事もなかったようにすうと退く。そして陽が昇り切ってしまえば後はただ、穏やかな朝の蒼穹が広がるばかりとなるのだった。

 つかの間の清らなる移ろいを堪能してから、深緋はましらに似た面をゆるりと嘉魚の方へ向けた。

 その視線を臆せず受け止め、嘉魚は身体ごと向き直って居ずまいを正す。深緋もまた、胡坐あぐらに崩していた脚を端座に整えた。一呼吸置いてから、深緋が口を開く。


「さて取引のことだが」

「はい」

「儂自身は、嘉魚どのの求めておられることに応えられぬ。だが、洛中より西の海を治める者に伝手つてがあるのでの、そやつを紹介申し上げよう。海とはいえ水に関わる一族なれば、もしかすると淵について何ぞ知っておるやもしれぬ」

「ありがとうございます」


 眼元を伏せて礼を述べれば、深緋は嘉魚の肩を軽く叩いて座を立った。凝った頸筋を揉みながら、そろそろ朝餉の来る頃であろ、と呟く。その姿を追って、嘉魚も隣の座敷へ移る。

 噂をすればというもので、程なく宿の者が膳の支度を運んできた。ここのこしらえは美味いと深緋の云った通り、普段それほど量を喰わない嘉魚も箸が進んだ。

 献立自体は、粥に澄ましに焼きもの香のもの、といった至って平凡な品目である。だが堅実かつ飽きのこない淡泊な風味で、見た目にもさりげない典雅さがあった。盛り付けの漆器も、最高級とまではいかないが好い品を使っている。

 取引の場にこの楼を指定したのは深緋である。大商人に昇りつめただけあって、さすがに眼が肥えていると嘉魚は改めて感心した。



 宿を出ると、深緋は周到にくるまを呼んでいた。嘉魚が己の脚で帰りますと云うところを、強いて店まで送り届けられる。

 別れ際、深緋は惜しむように嘉魚の頬を撫で、芝居がかった睦言を繰った。


「まさに、なほ恨めしき朝ぼらけと云うものぞ、嘉魚どの」

「明けぬれば暮れ、暮るれば明けるが世の道理です。またご縁があれば、一夜を共にすることもありましょう」

「……そなたは、ほんに冷やっこい人となりをしておるの」

「そこが好いと仰せになったのは、さてどちらの殿方でしたか」

「やれ、嘉魚どのには敵わぬな」


 二人はそこで三文芝居を打ち切った。深緋は眼差しを和らげて、あまり根を詰め過ぎぬようになどと云う。だが、嘉魚には無言しか返せない。

 呆れた執着であるのに、深緋はそれをなじろうとはしなかった。ただ嘉魚の頭を荒っぽく撫でると、少し離れたところに待たせていた俥へ身を翻す。嘉魚は彼を見送るため、後を追った。


「また、酒でも酌み交わそうぞ」


 俥の上から深緋が云う。嘉魚はそれに、そつのない所作で辞儀を返した。深緋が声を掛けると、俥夫は応と一声発して梶棒を握った。

 俥はがらがらと轟く音を立て、道の上を遠ざかってゆく。沙ぼこりと共に一陣の風が空を舞った。嘉魚は俥が見えなくなるまで眼を留め、それから店の内へ引き返した。

 無理をするなと深緋は云う。深緋ばかりではなく、他の知己友人たちも同様に。それでも、ためらう贅沢は許されていないのだ。

 嘉魚は帳場へ上がり、文机の前に腰を下ろした。抽斗ひきだしから中途になっていた本を取り出し、はらはらと項を繰る。

がんでんもの語集がたりしゅう』――その名の通り、左の世に口伝で伝わる説話民話を集めたものだ。無論左の者は作り物語を書くことはできないので、この編者も右の世から帰化した人物であるらしい。

 この書物の編まれた背景はともかく、嘉魚は少しでも淵に関する情報が欲しかった。生きたまま淵へ行き、その魂魄ともう一度逢うには如何いかにすればよいというのか。

 嘉魚が知りたいのは、ただその一点のみである。それを探して、彼はもう幾星霜を左の世で過ごしているのだった。


「……すえさん、」


 意識せず、求める魂魄の名が口をついた。柔和だがどこか浮世離れした、静かな狂気を宿す少年の面立ちが脳裏に浮かぶ。

 出会ったときから、彼はうつつなど見ていなかった。彼の眼は一心に淵へのみ向けられて、それを浮世のしがらみが辛うじて繋ぎ留めていたに過ぎない。そのしがらみを切ってしまったのは、嘉魚だ。

 嘉魚は眉をひそめ、強く唇を噛みしめた。だがすぐに鬱屈たる思いを振り払って、書物の字面を追い始める。

 方丈の店の中、項を繰る密やかな音だけが続いていた。


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