むかし語り:左右往来異聞

夢のうき橋


 水音がする。

 静かに寄せては返す、さざ波の音だった。真水の匂いとともに、その響きは絶えることなく打ち寄せてくる。海ではなく、どうやら湖のみぎりらしい。辺りは白い霧に覆われて、匂いと音でそう判ずるしかないのだった。

 淡々と繰り返されるそれに耳を傾けていると、自分の足元がおぼつかないような感覚に襲われる。よみすは確かめるように、靴底を地面に擦りつけた。ごつりと堅い木の感触がして、改めて粗末な桟橋に立っていたことを思い出す。

 なぜ、このような場所にいるのか。自問しても思考はうまく纏まらない。濃やかな乳白の闇に巻かれて、全てが融けだしていくような心地になる。五感に触れるもののどれもが単調に過ぎ、心身の物憂さは否応なしに増すばかりだ。時間さえも白に紛れ、薄絹の向こうに遠のいてゆく。そのうち、真実身体が霧と化してしまうのではなかろうか。つまらない戯れが頭をよぎる。

 それにしても、呆れるほどに濃密な霧であった。少しでも深く息を吸えば水滴が肺に絡みつき、咳き込みそうになる。さながら、真綿で首を絞められているような感覚だ。

 思わず、首元に手が伸びた。開襟のボタンを緩めると楽になり、息を吐く。すると頭の中もどことなく鮮明になった気がして、嘉は今一度、霧散していた思考を手繰った。

 ここは何処か。なぜこの場所に立っているのか。否それよりも、まず戻る道を探るべきではないのだろうか。

 もっと早くに考えついているべきだった。波のざわめきは前方からで、ならば背後は陸に続いているはずだ。この濃霧の中引き返すことは不可能でも、こんな桟橋に大人しく立っていることはない。せめて地に足をつけて、視界が晴れるのを待つ方がましである。なかなか思い到らなかった己の鈍さに憤りを覚えつつ、嘉はついと湖に背を向けた。

 しかしその瞬間、本能的に悟ってしまった。――今、自分はこの道を戻るべきではない。

 それは霧の有りや無しやというような問題ではなかった。不用意に動けば、恐らく二度と帰れなくなる。白に覆われた前方を目にした途端、背筋をひやりとさせる予感めいたものが嘉の神経を刺激したのだ。音もなく匕首あいくちを突きつけられたような感覚は、嘉の足を留めるには十分だった。

 しからばいかに行動するか。やはり大人しく、この桟橋にて待つべきなのか。ためらった足の下、板の継ぎ目がきしりと鳴く。伏せたおもてに纏いつく、透き通った水の匂い。

 と、嘉は弾かれたように顔を上げた。霧隠れの向こうから、何者かの近づいてくる気配があった。

 たとえ気配を捉えてみたところで、何ができるというのでもない。それでも身体は鋭敏に、未知に対して身構える姿勢をとる。徐々にはっきりとしはじめる輪郭に、嘉は目を細めた。

 たゆたう白の流れが薄れ、隠れた人影を露わにする。現れたのは、すんなりとした身体つきの男であった。手入れの行き届いた洋装が、長い手脚によく映えている。

 だが何よりも目を惹いたのは、その顔に奇妙な狐の面を貼りつけていることであった。のっぺりとした白塗りの面に、細い月を重ねたかのような筆の運び。流麗に走る黒や紅は、確かに化生じみた狐の顔を模していた。

 まさに奇怪。その様に気をとられて、嘉は不躾なほど男の顔を凝視してしまう。しかし、男の方はどうやらそれに気づいていない。あちこちに置いた露にでも触れたのか、裾や袖口を生真面目に手巾ハンカチで拭う。一通り身なりを整え、ようやく顔を上げた。

 その途端、男は喉の奥に悲鳴を張りつかせて後じさった。拍子に脚が縺れでもしたか、長身は呆気なく後ろへ倒れ込む。いきおい腰を打ったようで、今度は呻きと悲鳴のない交ぜになった声が上がった。

 その驚倒ぶりに、見ているこちらの力が抜けた。かような場所に茫然と佇んでいたのだから不気味には違いなかろうが、あまりな態度である。思わずため息を漏らしつつも、嘉は男に手を貸さんと近づいた。冷やかな予感は、いつのまにか消えていた。


「……大丈夫ですか」


 手を差し出したところ、男は我に返った風であった。申し訳ないと嘉の手を借り、慌てて立ち上がる。改めて近くで見ると、細身ながら均整のとれた四肢のつくりが際立った。男は被っていた帽子を取り、胸元に当てて頭を下げる。


「これは失礼を。この場所に誰かがおいでになることは、滅多にないもので……」

「いえ」

「しかし、貴方は如何いかようにしてここまでいらっしゃったのです? 拝見したところ、水宮すいぐうの印をお持ちなわけでもないようだが」

「……判りません。気がついたら、ここに立っていたのです」


 なぜこのような場所にいるのか、知りたいのはこちらの方だ。記憶を反芻しようとしても、頭の中はうっすらと霧がかったまま晴れはしない。乳白の闇、閉塞する思考。出口の見えない回廊は、喉の渇きにも似たもどかしさを募らせる。

 かすかに眉をひそめた嘉を、男はふむと顎に手を当てて見下ろした。そのまま矯めつ眇めつ眺めたのち、得心した様子で大きく頷く。


「ああ、なる程。貴方は浮橋を渡っていらしたのですな。随分古風な渡り方をご存知だ」

「……ウキハシ」

「貴方はの世の方でしょう、此岸こちらの匂いがしませんから。そして印もお持ちでないのに、この畔へ入っていらした。浮橋を渡っておいでになったのででもなければ、できることではありません」

「それは、どういうことですか」

「つまり、貴方は今、夢を見ておいでなのだということです」

「夢、」

「ええ。ここは私にとっては現実だが、貴方にとっては夢なのです。貴方は夢を通じて、このの世との縁を繋げなさったのですよ」


 男にとっては現だと云い、嘉にとっては夢だと云う。道理の見えない話である。嘉は今度こそ、はっきりと眉をひそめた。


「……結局、ここは何なのですか」

「ここは左の世と云うのです。貴方がいらした右の世の隣、……」


 順を追い、ねんごろに説明してくれようとしたらしい。だが男は唐突に言葉を切り、霧がすむ湖面へと首を巡らした。寸の間耳を澄ませたのち、懐中を探って時計を取り出す。それから改めて嘉に向き直ると、頭を下げた。


「申し訳ない。どうやら、案内の方が到着なさったようです。此岸のことをお教えして差し上げたかったが」


 そう云うものの、案内の姿など何処にも見えない。だが、訝しむうちに嘉も気づいた。さざ波に紛れて、舟を漕ぐ軋みが聞こえる。鈍い響きはしだいに近づき、やがて桟橋の辺りにうっすらと人影が透けて見えた。男はその影に向かって手振りで待ってくれと示し、嘉に対して力強く頷いてみせる。


「帰り道にお困りのようだが、大丈夫です。息を整え、目を閉じてご覧なさい。行先が見えてくるはずですよ」


 来し方の道筋が出来たのですから、帰りはたやすいものです。確信を持った口ぶりで、男は断じた。それからちらと桟橋を一瞥し、そろそろ行かねばなりません、と呟く。


「かように知り合うことができたのも、弟宮おとみやさまのもたらして下さったご縁でしょう。また機会があれば、次は真の世にてお会いできればよいですな」


 それではと会釈して、男は湖の方へと向かう。その生真面目さに思わず礼を返しつつ、去ってゆく後ろ姿を眼で追った。男は人影と何事かやりとりを交わしたあと、舟に乗り込んだようであった。細長い影が、帽子を片手に左右へ動かしている。それも直に遠ざかり、まもなく艪が水を打つ音も聞こえなくなった。後に残されたのはひたひたと寄せる波の響きと、白く濁った視界ばかりである。

 ひとたび誰かと言葉を交わしたがゆえに、なお一層、辺りの静けさはいや増してゆく。乳白の闇は変わらず立ちこめたまま、晴れることなど永久になさそうであった。

 果たして、あの奇妙な男の言葉を信用してよいものか。だが、待ち続けたところで状況が好転するとは思われない。身体を取り巻く霧の滴は、ただいたずらに嘉の肺腑を詰まらせるばかりである。そして体内でこごった水は、呼吸すらも止める塊になりはしないか。鬱屈とした想像を巡らせて、彼は重く息を吐いた。

 かぶりを振り、目を閉じる。延々突っ立っていても仕様がない。独り気息を整え、まなうらの闇に身を浸す。

 波音が彩度を増して、嘉の耳に迫ってきた。涼やかな水のささめき。澄んだそれは冴え冴えとした五体の感覚を呼び起こし、一方で意識の境界を曖昧なものにする。個としての己が、じわじわと湖の中へ融け出してゆく。静謐なまどろみ。波に揺られるまま自由を手放す感覚に陥って、そこで嘉の思考は途絶えた。



 *



 降り注ぐ朝の日差しが、むやみと嘉の視界を刺激する。

 学生帽の庇など気休めにしかならず、陰との落差が余計に眼の前を眩ませた。元来伏せ気味な眼つきをしている嘉だが、今朝はそれに輪を掛けて瞼が重い。普段なら気に留めることなどない肩がけの鞄も、鉛でもぶら下げているかのように感じられた。

 そのうえ往来のろうがわしさに引き摺られ、時折足元がふらつく。雑踏は耳鳴りを伴い、昨夜の夢の感触をずるずると纏いつかせる。寝不足の身に更なる不快を催す記憶が腹立たしく、嘉は眉を顰めながら歩いていた。

 その彼を、ふと後から呼び止める声があった。まだ少年らしさの方が勝る、明朗な音が耳を打つ。見ずとも正体を悟った嘉は、わずか横に目をくれたきり黙して歩いた。どのみち追ってくることは知れている。

 予想に違わず、背後から迷いのない足音が駆けてきて嘉に並んだ。


「おはようございます」

「……お早う」


 人懐こい笑みを向けてきたのは二つ下の後輩で、名を枢要かなめという。実は遠戚の間柄でもあるのだが、血が薄いためどういう縁に当たるのかは互いによく判っていない。もっぱら住まいが近いという理由の方で、家同士のやり取りがあった。


「好い天気ですねえ。時期もよい頃合いですし、出歩きたくなります。……そうだ、よければ学校が退けてから、りゅうヶ池の植物園に行きませんか。そろそろ、秋の花の咲き始める頃でしょう」


 枢要は愛想を欠いた嘉の挨拶にひるむでもなく、歩を揃えて話しかける。人の輪に馴染むのがうまく、交友には不足しないはずの少年なのだが、何故かよく嘉を慕ってくるのだった。それほど熱心に相手をしてやっている覚えもなく、趣味も異なる自分の何が面白いのか。長年の疑問であるが、今それは置く。

 枢要は「もうすぐ菊人形も出ますね、あきときたら今年も指折り数えているような様で」などと笑う。

 菊子とは、彼の妹である。普段であればそんな会話にもおざなり程度は返してやるのだが、今朝はそれすらも億劫だった。あまりにも反応のない嘉に、枢要ははたと口を閉じた。身長の差から上目遣いに、まじまじと顔を覗き込んでくる。


「先輩、体調でも優れないんですか? ……よく見ると、顔色が悪いような」

「少し、夢見が悪かっただけだ」


 視線を遠ざけるように帽子を被り直し、足を速める。枢要は遅れないよう小走りになりながら、意外だと云わんばかりの声を上げた。


「先輩でもそういうことがあるんですねえ。一体、どんな夢だったんですか?」

「……」


 あの夢は夢だったのか。四肢に張り付いた記憶を探るほどに、非現実は現実じみてくる。澄明な真水の匂い、波の揺らめき。霧粒に締め付けられる息苦しさや足下の木目の堅さも、嘉の五感に訴えかけて未だ止まない。

 そして何より、嘉が手を差し伸べた狐面の男は本物であった。手袋越しに触れた掌の温度を、嘉はありありと思い出せる。夢と片付けるには全てがあまりにも生々しく、追い払うことのできない触感を植え付けた。

 眉を顰めた嘉の態度をどう受け取ったか、枢要は「余程の悪夢だったんですね」と顔を硬くする。悪夢と括ってしまえるものでもないのだが、眠りを奪われたという実害が出ている点ではそう呼ぶべきなのかもしれなかった。


「……いずれにせよ、もう関わり合いにはなりたくないな」


 溜息を吐き、そう呟く。枢要はよく判らないといった様子で、気の抜けた相槌を打った。

 定まらない嘉の気分とは裏腹に、秋の風が涼やかに渡ってゆく。空を仰げば天高く、地を見れば何の変哲もない町の朝である。それを眼にすれば、やはり夢は夢なのだと思い直された。小説ならばむしろ好みの類だが、あのような現実があり得てよいものか。

 嘉は昨夜の残滓を振り払うようにゆっくりと瞬き、あとは黙々と歩を進めることに専念した。




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