第4話 シャルロットという存在

 窓から差し込む、太陽の強い光で目が覚めた。

 眼前にぼんやりと広がる高い天井に、はて、俺は一体どこにいるのだろうと一瞬考える。


「……ああ」


 まだ完全に覚めきらない頭で、ゆっくりと昨日の事を思い出す。そうだ。俺はあの――人間にしか見えない、しかしその生態は人間のものとは異なる少女に肖像画を描いてやると約束したのだった。

 結局、酒は飲まなかった。何故地下室に降りたのかとシャルロットに聞かれたのでバツが悪くはあったが正直に答えたところ、酒は高いから置いていないのだと逆に謝られた。

 ……ここでなおも酒を強請れば、駄目な人間どころの話ではない。幸い、あの後は悪夢の余韻も完全に吹き飛んでいたおかげで特に苦もなく眠る事が出来た。

 窓の外を見る。すっかり明るくなった空には雲がまだ多いが、その隙間から零れた日光が積もった雪に反射して、世界を眩しく、きらびやかに見せていた。


「……そうだ、久しぶりにちゃんと絵を描くんだ、気合いを入れとかないとな」


 そんな明るい世界に触発されるように、心なしかいつもより活気に満ちているように感じる体を大きく伸ばす。そして、荷物の中から雑用に使っている若干錆び付いた小振りのナイフを取り出すと、日光が差し込み明るくなった廊下へと出て洗面所を探す事にした。



 洗面所は一階に下りてすぐ、階段の近くで見つける事が出来た。入る直前、シャルロットが朝食の準備でもしているのだろう、廊下に漂うコンソメの微かな香りが鼻をくすぐった。

 俺は掛かっている鏡を見ながら、まずは顔中に伸びきった髭を剃り落とし始める。長く剛直な毛は処理するのになかなか苦労はしたが、根気を入れる事で暫く後には何とか総てを剃り切る事が出来た。

 次に目に掛かる長さの前髪を邪魔にならないくらいまで切り揃える。鋏があれば楽なのだが、何しろ都会で暮らしていた頃から節約の為にこうして髪を切っていたのでもうすっかり慣れてしまった。どんな事でも、慣れる事は慣れるものだ。


「……よし」


 髭を落とし、髪を切り終わるともう一度鏡で身なりを確認する。……風呂に入っていない分汚いのは変わらないが、これで少しくらいは見られる身なりになったのではないだろうか。

 床を見れば、俺が落とした毛の塊が小さな山のようになっている。俺は可能な限りそれを拾い集めごみ箱に捨てると、最後に汲み桶の水で顔を洗って厨房へと向かった。



「シャルロット、いるか?」


 声を掛け、厨房を覗き見る。上方の明かり取りの窓から入る光に照らされた、石造りのかまどの前ではちょうどシャルロットが小さな鍋の中身を味見している所だった。


「あ、おはようロディ。もうすぐ支度出来……」


 俺に気付いたシャルロットが、明るい声で振り返る。しかしその動きは、俺の顔を見た瞬間ピタリと止まった。


「……どうした?」

「ろ、ロディ……その顔……」

「ああ、仕事をするのにみっともない姿のままじゃいられないからな。洗面所を借りて髭と髪を処理した。……許可を得るべきだったか?」

「そ、それは大丈夫……だけど……」


 そう言うと、シャルロットは小さく俯いてしまった。その中で、視線だけはチラチラと俺を見ている。この様子……自分では自覚していなかったが、髭のあるなしではそんなに別人に見えるのだろうか?


「シャルロット……大丈夫か?」

「だっ、大丈夫だよ、全然大丈夫! そのっ、思ったよりカッコ良くて、ちょっと見惚れちゃったりした訳じゃ全っ然ないから!」

「見惚れ……?」

「とにかくっ、ロディはお客様なんだから食堂で大人しくご飯待っててっ!」

「お、おい……」


 どうにも要領を得ない様子に重ねて問い掛けようとするが、その前にシャルロットが物凄い勢いでこちらに駆け寄り強引に俺を厨房の外へ押し出した為結局何も聞く事は出来なかった。女がよく解らないのは、人間であっても魔物であっても一緒らしいと思わず溜息が漏れる。

 一先ずここは言う通りにしようと厨房を離れる前に、もう一度、そっと中を覗いてみる。その華奢な外見に似合わぬ、少々大雑把な様子で食事の支度を進めるシャルロットの頬は、若干赤く染まって見えた。

 ……どこか具合でも悪いのだろうか。急に態度の変わったシャルロットを心配しながら、俺は食堂へと移動した。



 食堂に入り、昨日と同じ席に着く。夜の間は気にならなかったが、この食堂には窓が一つもない為朝でも暗さが際立つ。大きな館というのは、どこもこんな物なのだろうか。

 とりあえず昨日のように燭台に火を点すと、すぐにシャルロットが料理を持ってやってきた。まだ顔が赤いかは、燭台のオレンジの灯りでは読み取る事は出来ない。


「はい。今日はジャガイモも入れたよ。これから暫くここにいて貰うんだから、材料をケチって栄養失調にさせる訳にはいかないもの」

「豆とジャガイモか? 豪勢だな」

「あはは。ロディはお世辞が上手いね」

「いや。ちゃんと味があって、具が二種類もある。おまけにパンまで付いている。十分過ぎるくらい豪勢だ。野宿の時はその辺の草を生で食って凌いだ事もあるし、折角宿に泊まれても食事は別料金、例え金を払っても具が全くない、味も付いているのか解らないそんなスープ一品で済まされた事だってあるんだ。なのにこれで文句を言ったらそれこそバチが当たるさ」

「……そんなに持ち上げられると、何だか逆に申し訳なくなるなぁ」


 俺としては素直な感想を言ったまでなのだが、シャルロットは眉を下げて笑うと料理を俺の目の前に置いて足早に向かいの席へ行ってしまった。厨房にいた時と比べて様子は元に戻っているようだが……どこか別の意味でぎこちない。

 気付かないうちに、気を悪くする事でも言ってしまったのだろうか。そんな不安げな俺の視線に気付いたのか、席に着いたシャルロットはまた困ったように笑った。


「……言ったでしょ? 私が人に食事を振る舞うのは、ただの自己満足なの。前に言った理由もあるけど、本当はもっと酷くて、死に逝く人達にせめて最後くらいは満足な食事を……って、そんな自分勝手極まりない理由なの。さっきはあなたを栄養失調にさせたくない、なんて言ったけど、それだって、本当は餌に死なれたら困るからかもしれない。だから……あまりいいように取らないで」

「……………………」


 ……何も言えなかった。悪い感情を抱いた訳ではない。俺にも使ったように人を動けなくする力を持つシャルロットだ、誰にも気付かれないよう人を餌にするだけならば人知れず旅人を館に招き入れた時点で目的は果たされたも同然。わざわざ食事まで与える必要はない。

 今だってそうだ。そもそも、自分の絵を描かせる為とはいえ、俺の栄養面に彼女が気を遣う必要だってないのだ。最低限の食事だけ与えておけば、それでいい筈ではないか。

 だからこれは紛れもなく、彼女の持つ優しさで。しかし、その優しさが余計に彼女を苦しめる。その悪循環をどうすれば断ち切れるのかなど……俺に、解りようもなかった。


「……今日は、何も食べないのか?」


 何も言葉をかけられず、代わりに話題を変える。シャルロットの前には、昨日と違って何の料理も置かれていなかった。


「うん。食べても栄養にならないから。人間より人間の食べ物の方がずっとずっと美味しいし、好きなんだけどね」

「……人間じゃないと、駄目なのか」

「正確には人間の血。世間じゃ私みたいなのを吸血鬼って言うんでしょ? 本に書いてあった」


 両手で頬杖を突きながら、シャルロットが小首を傾げる。昨日もやっていたから、このポーズは癖なのかもしれない。


「一応ね、血を吸わないでも生きていけるか試した事はあるんだ。でも駄目だった。一ヶ月は何とかもったんだけど、結局栄養失調になって死にかけて……偶然旅の人がこの館に忍び込まなかったら、そのまま死んでた。その時改めて実感した。私は……人間とは相容れない存在なんだって」

「死なない程度に……少しだけ分けて貰うんじゃ、駄目なのか」

「……私を育ててくれた、おばあちゃんの教えでね。私達は人に疎まれ、憎まれる存在だから、人外としての痕跡は絶対残しちゃ駄目なんだって。人間から血を吸えば、どんな量でもその痕が残る。それをそのままにしておけば、人間に存在を気付かれて襲われる危険を増やす事になる……館に招いた人をそのまま見逃す事も、本当はいけない事なの」

「おばあちゃん……昨日もそういえば言っていたな。何故死んだんだ? その人は吸血鬼じゃなかったのか?」

「……吸血鬼では、なかったと思う。物心ついた時からずっと一緒にいたけど、おばあちゃんが血を吸っている所は一回も見た事ないから。おばあちゃんが何者なのか私は知らないけどとにかく私に尽くしてくれて、人間を館に誘い込んで私に与えたり、生きていく為の色んな知識を教えたりしてくれた。そして、私が十分に一人でも生きていけるようになった日……私に自分の総ての血を与えて、死んだの」

「……そうか」


 悲しい事を思い出すように目を閉じるシャルロットに、俺はただ相槌を打った。その婆さんのした事は人間にとっては害悪でしかないが……シャルロットにとっては、きっと自分を育ててくれた恩人なのだろう。


「……こんな事、初めて人に話したな。ふふ、私が人間じゃない事を知ってる人なんてロディしかいないんだから当たり前だけどね。……冷めちゃうよ。食べて」


 促され、そういえば食事にまだ手を付けていない事に気が付いた。俺はスプーンを手に取り、スープを口に運ぶ。

 スープは昨日と同じ、シャルロットの人柄を表すような温かい味がした。



「はい、これ。画材」


 食事が終わり、部屋で待っていて欲しいと言うシャルロットに従い部屋に戻ってくつろいでいると、程なくしてシャルロットが両手に大きめの袋を抱えて現れた。


「すまないな。どれどれ……」


 袋を受け取り、シャルロットが傷付かぬよう心の中だけで本来の持ち主に哀悼の意を捧げると中を検分する。筆、パレット、油絵の具。さらにはカンバスと三脚。どれも古くはあったが、十分に使う事が出来そうだった。


「どう? 足りる?」

「ああ。かさばるだろうに、まさか三脚まであるとはな。この持ち主は余程……」


 余程、絵が好きな人間だったんだろう。そう口に出しかけた言葉は、不意に目に入ったシャルロットの表情を見て途中で止まった。

 ……傷付いたのを、必死で隠しているような顔。しまった。配慮しようと努めていたのに、久々に目にする画材に高揚し一瞬だがそれを忘れてしまっていた。

 ああ……何て馬鹿なんだ、俺は。シャルロットを傷付けたい訳じゃないのに。


「シャルロット……」

「……そんな顔しないで。私は、大丈夫だから」


 後悔を、顔に出してしまったのだろうか。謝罪の言葉を口にしようとした俺に、シャルロットが作ったと解る笑顔を浮かべてそう言った。それを見て、また胸に罪悪感が膨らんでいく。


「……そういえば、昼間起きていても平気なんだな。吸血鬼と言えば夜行性と相場が決まってるが」


 それ以上どう言葉を重ねても追い討ちにしかならない気がして、俺は視線を逸らし話題を変えた。自分の器用とはとても言えない性格が、こんな時はつくづく嫌になる。


「うん……直接太陽の光に当たらなければ害にはならないし、窓から明るい外を見るのも好きだから」

「やっぱり太陽を浴びると灰になるのか?」

「灰になるまで浴びた事はないから解らないけど、当たりすぎて火傷はした」

「……シャルロットは何でも試すんだな」

「自分の事、ちゃんと知っておくのは悪い事じゃないでしょ?」


 今度は無理はしていない様子で小さく笑うシャルロットに釣られるように、俺の表情も緩くなる。こうしていると、つくづく人間と全く変わりない。

 年頃の少女のようによく笑い、よく悩み、傷付きやすく、けれど優しい。ただ、生態が人間と異なるだけで。

 ……取引抜きに、俺が肖像画を描く事で彼女が喜ぶならそうしてやろう。心から、そう思った。


「それじゃあ、お前さえ良ければ早速始めようと思うんだが。希望の場所はあるか?」

「ここでいいよ」

「いいのか? お前の部屋とかじゃなくて」

「うん。この部屋が一番日が当たりやすくて、明るくて好きだから」

「……だからこの部屋を客間に?」

「……」


 俺の問いに、シャルロットは答える事なく背を向けた。ただその一瞬で見えた表情は……何かを諦めたような、寂しそうな笑顔だった。


「……着替えてくるから支度、始めてて」


 振り返らず、そう言って駆け出したシャルロットの背を見つめながら、俺はまた胸が重く痛み始めるのを感じていた。



 シャルロットが戻ってきたのは、丁度俺が三脚にカンバスを掛け終わった所だった。色は同じ白だが上品で大人びた印象を与える今までの衣装とは違う、フリルの付いたドレスのような可愛らしいデザインのワンピースを身に纏っている。


「えへへ……思い切ってお気に入りの服にしちゃった。実はこれ人前で着た事ないんだ」

「そうなのか?」

「うん。あんまりこういう子供っぽい格好してると舐められちゃうからね。これでも色々考えてるんだよ」

「そうか。勿体無いな、折角良く似合って可愛いのに」

「……!」


 俺がそう言うと、シャルロットはその白い頬を一気に赤く染めて目を見開いた。……褒めた、つもりだったんだが……怒らせたのか?


「……気に、障ったか?」

「……と……」


 不安になって、俯いてしまったシャルロットに問い掛ける。すると、シャルロットがボソボソと何かを呟いた。


「シャルロット?」

「あ、りがと……嬉しい……」

「……シャルロット……」


 ああ、そうか。全く、こんな事にも気付かないとは。

 実際生きた年月がどうであれ、シャルロットの中身は見た目と同じ、年頃の少女そのものなのだから。可愛いと褒められれば照れる。故郷の女友達もそうだっただろう。

 顔が緩むのが解る。たった一晩一緒にいただけなのに……酷く彼女を好意的に見ている自分を、今更ながら強く自覚した。


「と、とにかくっ! 私はどうしたらいいの!?」

「ああ。とりあえずカンバスの向かいの椅子に座ってジッとしているだけでいい」

「お喋りは出来る?」

「ああ。疲れたら言ってくれ。休憩にしよう」

「解った」


 頷き、椅子に座ろうとするシャルロット。その時ふと、彼女の姿に違和感を覚える。

 まじまじと、彼女の全身をくまなく見つめる。……さっきは衣装の違いに目を取られていたが、これは……。


「シャルロット」

「何?」

「胸……何か詰めただろう」

「!?」


 シャルロットの表情が、一瞬にして固まる。そう……彼女の胸の膨らみはよく見れば、先程までと比べ不自然なくらいに大きくなっている。


「し……知らないよ。ワタシ、シラナイヨ」

「誤魔化すな。これでも絵描きの端くれだからな。観察眼くらいはあるさ」

「……チョットグライ、イイジャナイ」

「駄目だ。少しでも偽ったら、それはもうお前じゃなくお前に似た何かでしかない」

「……」

「シャルロット」


 あくまで毅然とした態度でシャルロットの言い分を却下し、その姿を見つめる。シャルロットは俯き、わなわなと体を震わせていたがやがてバッと顔を上げた。


「……っ、ロディの馬鹿あっ! 取るもん! 取ってくればいいんでしょ馬鹿あああああっ!」


 涙目になりながら、絶叫して走り去るシャルロット。部屋を出る際には、ご丁寧にも勢い良く音を立てて扉を閉めていった。

 多少罪悪感はあるが、これは俺の信念だ。対象の自然な、ありのままの姿を描く。路銀稼ぎの似顔絵描きですら、それを曲げた事は一度もない。


「……ふ。信念、か」


 金にもならない、寧ろ客を怒らせ、金も名声も遠ざける事にしかならなかったものに未だ縋り付こうとする自分に、俺はただただ自嘲する事しか出来なかった。

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