第3話 取引
……動けなかった。
蛇に睨まれた蛙とはこの事か。俺の視線は、蝋燭の灯りの中に亡霊のように浮かび上がったシャルロットの姿に釘付けになっていた。
「貴方は、悪い人じゃなさそうだから。私も、まだお腹に余裕があったから。だから、見逃してあげようと思っていたのに」
シャルロットが一歩、俺に近付く。後ずさろうとする俺の足は、しかし石膏で塗り固められたように微動だにしなかった。
「この地下室を見られちゃったからには……もう、生きてここから出す訳にはいかない」
冷たい視線。表情のない顔。これは誰だ。本当にあのシャルロットなのか。
「ごめんなさい。恨まないでなんて言わない。けど私も、食事を摂らないと生きていけないの」
シャルロットの手が伸び、髭だらけの俺の頬に触れる。その手はまるで、氷のように冷たかった。
それを反射的に払おうとして気付く。体が……全く動かない。恐怖からではない。恐怖はあるが、それとは別に指一本、俺の意思ではぴくりとも動こうとはしないのだ。
「何を……した」
「乱暴はしたくないから。だから、体の自由を奪わせて貰ったの。私の瞳には、そういう便利な力があるんだよ。……大丈夫、優しく、眠るように死なせてあげる」
身動きの取れない俺の首筋に、シャルロットが唇を近付ける。そこに光るのは……今までは気が付かなかった、牙のように鋭い犬歯。
……お笑いだ。こんな形で終わるのか。俺のこの、何も得るもののなかった人生は。
「ふ……ふふふ」
無意識のうちに、口から笑いが漏れていた。笑わずにはいられなかった。この呆気無さすぎる幕切れに。
「くくく……ははは」
「……何が、可笑しいの?」
シャルロットが顔を上げ、俺の目を見つめる。このあどけない仕草。これも人を騙す為の仮面だと言うのなら、彼女は何と優れた役者なのだろう。
「殺せよ」
「!」
吐き捨てるように言い放つ。瞬間、シャルロットの表情が強張ったように見えた。
「殺せ。……優しく、殺してくれるんだろう?」
目を閉じる。未練はない。どうせ、いつ死んでもいいとそう思っていたのだから。
「……怖く、ない、の? 死ぬん、だよ?」
「ああ、怖いな。これから死ぬんだからな。だが……もう、どうでもいいんだ」
耳に響く、シャルロットの声が震える。これではどちらが殺す側なのか解らないな、とまた可笑しさが込み上げてきた。
そう、恐怖は確かにある。取り繕うつもりはない、これは人間の本能みたいなものだ。だが、それ以上に……生きる事が虚しい。自分の生きる意味が見出だせない。
それは果たして、生きていると言えるのか。こんな空っぽの状態で。
だから、シャルロットに騙された事に対する恨みもない。元より、彼女になら騙されても構わないと思っていたのだ。
彼女の言葉が偽りでも、俺が感じた安らぎはけして偽りではない。最期にそんな感情を持てた事を、寧ろ感謝したいぐらいだ。
「……駄目だよ」
そのまま、どれくらい時間が経っただろう。不意にシャルロットが、そうぽつりと言った。
「駄目。死んでもいいなんて、そんなの駄目! 生きる事がどうでもいいなんて、悲しすぎるよ!」
「……シャルロット?」
予想外の言葉に、思わず目を開ける。飛び込んできたシャルロットの赤い瞳は、泣きそうに歪んでいた。まるで、俺の代わりに泣こうとしているように。
「今は辛くても、生きてればきっといい事あるから! だから死にたいだとか、そんな事思っちゃ駄目!」
「……そう言われても」
正直、困惑していた。今まさに俺を殺そうとしていた相手から、そんな言葉が出てくるなんて思ってもみなかった。どうしていいか解らず、俺はボリボリと頭を掻く。
「あ……」
そこでまた気付く。体が、自由に動くようになっている。俺は溶けた蝋がシャルロットにかからないよう気を付けながら、燭台を顔がよく見える位置に掲げ直した。
先程まで人形のようだった顔は悲しげに歪み、潤んだ瞳は真っ直ぐに俺を見つめる。頬を包み込むように触れた白い掌が、小刻みに震えているのが肌を通して伝わってきた。
……参った。これでは本当に、どちらがどちらを殺そうとしているのか解らない。
「生きろと言うが、お前、俺を殺さなきゃ困るんだろう」
「……そうだけど」
「じゃあ、命乞いでもして欲しいのか」
「そ、そんな悪趣味じゃないもん!」
強く言い返されて流石に意地悪な事を言ったかと反省したが、ではこの場合どうしたらいいのかなど全く解らない。完全に死ぬつもりでいた分、尚更だ。
「どうしたいんだ。俺を殺したいのか、生かしたいのか」
「う、うぅ……」
いい考えも浮かばずに、仕方なく重ねて問い掛けるとシャルロットは困ったように俯いてしまった。もしこの光景を第三者が見ていたら、完璧に俺が彼女を苛めているように見えた事だろう。
暫しの沈黙。俺はシャルロットを見つめ、シャルロットは俯いたまま何かを考えている。
そのままどれほどの時が経った事だろう。俺が心底困り果てていると、突然シャルロットがばっと顔を上げた。
「取引をしよう!」
「取……引?」
その突飛な提案に、オウムのように言葉を繰り返すしかなくなる。いまいち要領を得ない俺に、シャルロットは必死で主張を続けた。
「そう。貴方、絵描きさんだって言ってたよね? だったら私の絵を描いて!」
「お前の、絵を?」
「絵が完成するまで、貴方にはここで生活して貰う。その間に私は貴方が私の正体を人に言ったりしない、信用出来る人かどうかを判断する。それで絵が仕上がった時、貴方を信用出来ると思ったら危害は加えず、そのまま貴方を解放する。どう?」
「……」
まぁ、成る程、納得出来なくもない条件だ。シャルロットの言からすると俺を殺さなければならないのは彼女が人を糧とする存在であるという事実を俺が知ってしまったからで、それを誰にも言わないという確信が得られるならば俺を解放しても構わない、そういう事なのだろう。
人一人を簡単に動けなくする力を持つほどだ、最初から俺を食うつもりならきっととっくにやっていた。……俄かには信じられない事だが、どうやら彼女は条件付きとはいえ本気で俺を見逃してくれるつもりでいるらしい。
「……解った。いいだろう」
「! じゃあ……!」
「ただ、こちらからも一つ頼みたい事がある」
パッと顔を輝かせたシャルロットに、俺は言葉を重ねる。そして、空いている方の手でそっと彼女の髪を撫でた。
「もし、絵が完成しても俺が生きる気力を持てなかったら……その時はお前の手で殺してくれるか?」
「え……」
「大丈夫だ、自分から命を絶ったりはしない。そんな度胸は持ち合わせてないからな……だから、誰かに殺して貰うしかないんだ、俺が死ぬには」
「……………………」
シャルロットはまた悲しげに瞳を歪めて、俺の目を見つめた。しかし間もなく、小さく首を縦に振った。
「……うん。もし死ぬ事でしか貴方が救われないって判断したら、そうする」
「決まりだな。……ただ、一つ問題があるんだが」
「絵の具の事?」
「絵の具もだが、絵を描こうにも今の俺は鉛筆と安い紙しか手元にない」
自嘲するようにわざと大きく肩を竦めると、シャルロットは何かを考えるように目を伏せた。そして、少し躊躇いがちな様子で言った。
「……貴方が嫌じゃなければ、私が持っている画材を使って。私が……殺してしまった人達の持ち物の中に、確か画材一式があったと思う」
「取っておいてあるのか」
「……捨てる気に、なれなかったから」
そう告げるシャルロットの表情は暗く曇っていて。自分が人を殺して生きている事、それを良しとしているようにはどうしても見えない顔だった。
見も知らぬ死者の遺品を使う事に、抵抗がない訳ではない。が、こんな表情を見せられては無下に提案を断る気にもなれない。
「是非、使わせてくれ。俺にどこまで出来るか解らないが、きっとお前の納得のいく絵を描いてみせる」
「……ありがとう。じゃあ、そろそろ上に戻ろう? ここは……寒いから」
「ああ……そうだな」
シャルロットが頬から手を離し、くるりと背を向ける。恐らくは彼女にはこの暗闇でも物が見えているのだろう、その姿は燭台の灯りから足音と共に離れ、そして、消えていった。
その後を追おうとして、もう一度背後の骸骨の山を振り返る。生きたくても生きられなかったこいつらには、死のうとして生き延びた俺はさぞ恨めしい存在だろう。
祟るなら、祟ればいい。事が終われば俺もすぐ、お前達の所に行くつもりだ。
「……魔物とは、一体何なんだろうな」
見た目のみならず、その心根までも殆ど人と変わりなく見える、暗闇の先を歩く白い少女を思いながら俺は答える者のない疑問を呟いた。
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