第2話 館の秘密

 窓から漏れるランタンの灯りが、静まり返った夜の雪道を照らす。

 俺の前を歩くのは、白い傘を差した少女。俺より大分小さいその姿は今は傘に隠れて、毛皮のブーツを履いた華奢な足元しか見えない。


 ――俺は少しだけ迷った後、少女の申し出を受けた。


 こんな雪の日、しかももう夜の帳の降りようとしている時間に外を出歩いているこの少女を、不審に思わなかった訳ではない。だが生きたいと思うならば、他に選択などありようもなかった。


「……生きたい、か」


 自分の思考を口にして、思わず苦笑が漏れた。……これだけ堕ちに堕ちて、まだ生きたいと願うのか、俺は。


「何か言った?」


 俺の呟きが耳に入ったのか、少女が足を止め振り返る。両目に宿る赤は、白と黒の世界に一層鮮やかに浮かんで見えた。


「いや……何でもない。寒いなと、そう思っただけだ」

「そう。後少しで家に着くから。そうしたら温かいスープを用意するからもう少し我慢してね」


 目を細め、人好きのする笑みを浮かべて少女はまた歩き出す。俺はそれに遅れないように、疲れた体に鞭打って大股に少女の後ろを歩いた。

 ふと横目で近くの建物を見ると、窓や扉の隙間から仄かな灯りを漏らす酒場が目に入った。そういえば、暗さと雪で印象は異なって見えるもののこれは街の入口の風景……つまり、今俺は来た道を後戻りし街の外に向かっている事になる。

 こんな所に家などあるのか、そう俺が問い掛けようとした時だ。


「あそこだよ」


 不意に少女が立ち止まり、前方を指差した。俺は目を凝らし、舞い散る雪のその向こうを見つめる。


「あれは……」


 形の良い、細く陶器のような人差し指が示したのはこの雪の中でなお、闇に溶け込むように黒くそびえ立つ建物。やはり受ける雰囲気は異なるが、それはこの街に入る前に確かに目にしたあの館だった。


「行こう」

「待ってくれ。お前は、あそこに住んでいる……のか」

「そうだよ」


 振り返らず、少女は問いに答える。思い出すのは、日暮れ前に会った老婆の言葉。

 館に住むという魔物。馬鹿げている話だと思ってはいたが、言われてみれば目の前の少女はどこかこの世ならざる雰囲気を漂わせているように見える。

 本当に少女が魔物ならば……俺を誘うのは、己が腹を満たす為か。


「……それもいい、か」


 恐怖は、ない訳ではない。臆病だとそう罵られても、僅かとは言え一度生まれてしまった感情は消す事は難しい。

 だが、本当に魔物というものが存在するのなら、それを目にして死んでいくのも悪くはない気がした。

 自分の力ではどうにもならない存在に殺されるのだ。少なくとも、路上で惨めに野垂れ死ぬよりはよっぽどマシな死に方じゃないか?


「どうしたの? 置いてっちゃうよ」

「ああ……すまない」


 気が付けば、こちらを見る少女の姿は大分先の方にあった。俺はまとわりつく雪を振り払うように、その後ろ姿を急いで追い掛けた。


 ――生きたいのか死にたいのか、もう自分でも解らないまま。



 両開きの重々しい玄関の扉を開き、手入れが行き届いていないのか埃が積もってはいるが元は上等な物であろう絨毯の敷かれた廊下を歩き。館に辿り着いた少女が俺を通したのは、窓のない大きな部屋だった。


「椅子にでも座って待っていて。今スープとパンを用意するから」


 中央のテーブルに置かれた燭台にマッチで火を灯すと、少女は俺を残し部屋を後にした。それを見送ると、俺はぐるりとオレンジ色の小さな灯りに照らされた室内を見渡す。

 どうやらここは食堂であるらしい。燭台のある長方形のテーブルには清潔な白いテーブルクロスが掛けられ、全部で六つ並べられた装飾が施された椅子と合わせて埃の積もっている様子はない。扉の正面にある壁には部屋の広さに見合う大きな暖炉が備わっていたが、覗き込んだ中には薪の一本も置いてはいなかった。


「……まぁ、雪風が凌げればそれだけで上等か」


 暖房もない広い部屋の、冷えた空気が気にならない訳ではなかったが造りがしっかりした建物のおかげかそれでも外に比べれば天と地の差だ。それ以上を望むのは贅沢という物だろう。

 他に何かないかと見回せば、入口から見て右側の壁に風景画が掛けられているのを見つけた。薄暗くて全体像はよく解らないが、この辺りとはまた違う、田舎の風景が描かれているようだ。


「……………………」


 ゆっくりと、その絵に近付く。それはどこか、故郷の村に似た印象を俺に与えた。


 親父。俺が都会に行く事に、唯一反対した。村で畑仕事をやるのが一番だと、最後まで俺にそう言い続けた。

 お袋。俺を心配しながらも、優しく送り出してくれた。辛くなったらいつでも帰ってこいと、そう言って抱き締めてくれた。

 友達。俺の僅かな才能を、心から信じてくれた。お前なら絶対に成功すると、背中を押してくれた。


 ……そんな事を、不意に思い出した。今はもう、遠い記憶。

 都会に出て以来、故郷には一度も帰っていない。最初は成功するまでは帰れないと意地を張り、そのうち……惨めな敗者である自分を知られるのが嫌になって。

 皆はどうしているだろう。まだ、皆の記憶の中に俺は残っているだろうか。


「その絵が気になるの?」


 どのくらい物思いに耽っていたのか。その声に我に返って振り返ると、いつの間にか少女が戻ってきていた。手には湯気の立ったスープ皿とパンの入った籠を持ち、こちらから視線を逸らさずにそれをテーブルの上に静かに並べる。


「ああ。……職業柄、な」

「貴方、絵描きさん?」

「今は休業状態だがな」


 会ったばかりの少女に、流石に胸にのし掛かる感傷を吐露する訳にもいかず俺は簡単にそれだけ答えた。これもまた、あながち嘘ではない。


「もう絵は描かないの?」

「描くにも絵の具を買う金すらなくてな」

「……描きたいの?」


 無邪気な様子で投げ掛けられたその問いに、俺は答えなかった。話を切り上げるように絵から視線を剃らすと、食事の置かれた席へと腰を下ろす。


「そういえば、まだ名前を言ってなかったね。私はシャルロット」

「……ロディだ」


 俺が座るのを確認すると、少女――シャルロットが向かいの席に座り、両肘をテーブルに乗せ頬杖を着きながら名前を名乗る。それに応え、俺もまた自らの名を告げた。

 目の前の食事に視線を落とす。金箔で細やかな模様が描かれた皿に注がれているのは、それに似合わぬ簡素な豆の浮いた琥珀色のスープ。籠に入っているのは、掌に収まる大きさの二個の黒パンだった。


「ごめんね。本当はもっと上等な物を食べさせてあげたいけど。この辺りは食料があまり豊富じゃないから、どこも食事はこんな物」

「……いや。十分だ」


 眉を下げ苦笑するシャルロットに、俺はそう答えて銀色のスプーンを手にする。

 心からの言葉だった。ここ数日、温かい物など口にしていない身としては。

 スープを掬い、熱を息で冷まして口に運ぶ。舌に触れたスープからは、コンソメの素朴だが、温かみのある味がした。


「……美味い」

「本当? 良かった、お口に合って」


 素直な感想を述べると、シャルロットは安心したように息を吐き自らも同じように前に置かれたスープを啜り始めた。その様子を見ながら、俺もまた食事を進める。


「驚いたでしょ。いくら辺境だって、街道の途中にあるのに宿もない街なんて」


 黒パンをかじる俺に、シャルロットがまた苦笑する。俺は口の中のパンを飲み込むと、小さく頷いた。


「まぁ、な」

「この辺りには昔、盗賊が多かったの。街道を山の方に向かうと外れに鉱山街があったんだけど、ある日鉱山から毒ガスが噴き出したのが原因で廃坑になっちゃってね。それで仕事を無くした坑夫達が盗賊になってこの辺りまで降りてきて、所構わず強盗に入って金目の物を奪ったりしたんだって。今は、そういう事はないんだけど」

「その名残で、今でも余所者を警戒している訳か」

「うん。……もう、五十年ぐらい昔の話」


 成る程、その時の凄惨な記憶がまだ色濃く残っている故に必要以上に余所者を受け入れようとしないという事か。こちらとしてはいい迷惑と言う他ないが。


「魔物の話は聞いた?」


 その時、突然そう話を振られてドキリとした。まさか彼女の方からそんな話をしてくるなんて、思いもしなかった。


「……ああ」

「聞いたんだ。実はそれもね、盗賊達が原因なの。当時、この館は盗賊達のねぐらとして使われてて、街から何人も娘達がここに連れてこられて……そして、二度と帰らなかった。それで街の人達は、ここには魔物がいるという事にして決して近付こうとしないの」

「過去の暗い出来事を思い出さないように……か」

「そんなとこ、かな」


 大体話は見えてきた。成る程、筋は通っている。だが……。


「なら……何でそんな場所にお前は一人で住んでいる?」

「!!」


 そうだ。それだけが納得がいかない。そんな曰く付きの場所に、年端もいかぬ少女が一人。

 俺の問いに、シャルロットは一瞬表情をなくし体を強張らせた。そして、悲しげな笑みを浮かべて言った。


「私、病気……だから」

「病気?」

「誰かに感染ったりする病気じゃないんだけどね。……生まれつき、太陽の光に当たれない病気なの。それで皆に疎まれて、街を追い出されて……行く宛もなくて、ここに」

「家族は?」

「おばあちゃんがいたけど、死んじゃった。お父さんとお母さんは知らない。物心ついた時には、二人ともいなかった。お金だけは十分に残して貰えたから生活には困ってないけど……病気のせいで、食べ物を買うのも一苦労」

「……そんなに大変なら、何故、俺を家に招いた?」


 またも俺は疑問を口にした。純粋な疑問だった。話を聞く限り、人に施しを与えられるような裕福な生活をしているとも思えない。目の前の贅沢とはけして言えない食事も、それを物語っている。

 それでもなお、乏しい食料を見ず知らずの人間に振舞い宿を提供し、対価を求める素振りすら見せない。何が彼女をそうさせるのか。


「……自己満足、かな」


 少しの沈黙の後、シャルロットはぽつりと呟いた。その顔に浮かぶのは、弱く儚げな微笑み。


「こんな、こんなちっぽけな自分でも誰かにしてあげられる事はあるんだって……そう、思いたいの。他に思い付く事が何もないから」

「……そう、か」


 それだけ返すと、俺は残ったパンの塊を一口に飲み込んだ。彼女の言葉の総てを真に受けた訳ではないし、今晩限りの関係でその全部を理解しようとも特に思わないが……俺の目には少なくとも、彼女が好ましく映った。

 総てが演技で本当は騙すつもりなのだとしても、構わないと思った。……目の前の、この儚げで、愛らしい少女に騙されるなら。


「……ごめんね、私の事ばかり。ねぇ、ロディは今までどんな所を旅してきたの? 宿代代わりに聞かせてくれる?」

「ああ……大して面白い話はないが、それでも良ければ」


 シャルロットが軽く首を振り、声のトーンを上げて俺に問い掛ける。俺は少し冷めてきたスープを掬いながら、小さく頷きその願いに応えた。

 この食事以上の、実に久しぶりに感じた温かい感情に胸を満たされながら。



「ここを使って。他の部屋は埃だらけで使えたものじゃないから」


 食事が済み、シャルロットが俺を案内したのは二階にある階段に近い部屋だった。シャルロットは風呂を沸かそうと言ってくれたが、そこまではさせられないと俺が断った。


「すまないな、色々と」

「ううん、いいの。そうそう、家の中は自由に見て回っていいけど地下室には入らないでね。散らかりすぎててあんまり人に見せたくないの」

「解った」


 俺が頷くと、シャルロットはお休みと言い残し部屋を出ていった。俺は窓際のベッドに腰掛け、外套を脱ぎ捨てる。

 ベッドと窓、それから古びた椅子以外は何もない室内は、恐らく食堂と同じでシャルロットがまめに掃除をしているのだろう、埃もなく片付いている。絨毯には皺が残っており、昔はそこに家具が置かれていたのだろう。

 カーテンのない窓を見る。雪はますます深く、窓に映し出された景色一面を覆っている。これでは明日動けるかどうか解らないが……かといって何日もここに世話になる訳にもいかない。

 それに、シャルロットに聞いた話が本当なら、これ以上街道を進んでもあるのは毒ガスに蝕まれた人のいない鉱山街。一旦引き返し、分岐した他の街道を進んだ方が賢明だろう。


「……寝るか」


 敷かれた古い布団を被り、俺は体を横たえた。ベッドは少しかび臭くはあるが、十分に温かい。そこら辺の安宿よりも、よっぽど上等な寝床だ。

 今日は良い一日だった。途中こそ最悪だったが、シャルロットのおかげで久々に穏やかな気持ちで一日を終える事が出来る。

 目を閉じ、眠気が降りるのを待つ。きっと、今夜はよく眠れるだろう。

 そして俺は、間もなく夢の世界へと落ちていった。



 ――声がする。冷たく心を抉る声が。


『お前、才能ないよ。絵を描くだけ画材の無駄だ』


 その言葉と共に、一ヶ月かけて描き上げた絵は画商に投げ捨てられた。


『貴方みたいな貧乏人、お呼びじゃないの。夢ばっか追ったって飯の種にもなりゃしない』


 思い切って愛を伝えた女性は、そう吐き捨てて金持ちの男の元に走っていった。


『なぁ、ロディ……俺、もう疲れたよ。疲れたんだ……』


 夢を同じくした、都会に出て初めて出来た親友は次第に酒と博打に溺れ、やがて借金を苦にして自殺した。


「止めてくれ……聞きたくない。見たくない」


 耳を塞ぎ、目を閉じる。しかし言葉は手をすり抜け、映像は瞼を透過する。

 いつの間にか周りを取り囲んだ、故郷の皆が言う。この負け犬がと。恥さらしがと。

 声はどんどん大きくなっていく。頭の中でわんわんと反響する声が、重い痛みとなって脳髄を襲う。

 負け犬。負け犬。恥さらし。貧乏人。負け犬。疲れた。恥さらし。才能ない。貧乏人。疲れた――。


「止めろおおおおおおおお!!」


 そう叫んだ自分の声で、ハッと目が覚めた。心臓が早鐘のように鳴り、汗を掻いたのか全身がじっとりと湿っている。


「……クソ……っ」


 折角、今夜はいい気分で眠れると思ったのに。今の夢のせいで、全部台無しだ。目許まで伸びた前髪を掻き上げ、俺は強く歯を食い縛った。

 ここ暫くは見ていなかった、時々俺を襲う悪夢。そもそも最近は夢を見るほどに、深く眠れる機会がなかった事もあるのかもしれない。が、最悪のタイミングで見てしまったそれは、訪れた眠気を完全に吹き飛ばしてしまった。


「酒……飲みてぇな……」


 汗を掻いたせいだろうか、不意に喉の乾きを覚えて俺は呟いた。こんな時は、酔ってしまえば夢も見ずに潰れてしまう事が出来る。だが、この館に酒などあるだろうか。


「探すだけ……探してみるか……」


 どのみち、このまままた眠る事は出来そうにない。酒はなくとも、気分転換にはなるかもしれない。俺は長らく手入れをしていない髭面に伝う汗を乱暴に拭うと、のろのろと重い体を起こした。



 広い館の中は暗く、そしてしんと静まり返っていた。俺は一旦一階の食堂へ向かい、燭台を借りると脇に置かれたマッチで火を点けて暗闇を照らす灯りにした。

 恐らく酒があるとすれば、厨房か地下だろう。俺は手当たり次第に、扉を開けて探す事にした。

 一つ一つ、部屋を見て回る。厨房は食堂の隣にあったが、調味料と少しの野菜があるだけで酒が置いてある様子はない。調理酒でもあればと思ったが、そこまで上等な物は流石に持っていないらしい。

 やがて館内を調べるうち、廊下の突き当たりに他とは雰囲気の異なる扉を見つけた。他の扉は木で出来ているが、この扉だけは鉄で出来ている。これが地下への扉なのだろうか。

 冷たい取っ手に手をかける。と、不意にシャルロットの言葉が思い出された。地下室は見ないで欲しいと、彼女はそう言っていた。


「……少し、探検するだけだ」


 シャルロットに申し訳ないとは思ったが、結局好奇心と酒への欲求が勝り俺は鉄の扉を開いた。軋みを上げながら扉はゆっくりと開いていき、途端に湿った空気が俺の肌にまとわりつく。

 石で出来た階段を、足元に気を付けながら慎重に下る。かなり深いのか、燭台の小さな灯りでは階段の下の闇しか見る事は出来ない。

 自分の足音しか聞こえない闇を、どれくらい下り続けただろうか。不安が胸を支配し始めた所で漸く階段は終わり、床が現れた。

 床に降りるとすぐ目の前には入ってきたのと同じ鉄の扉。俺はごくりと唾を飲み込むと、錆びているのか先程よりも大きく軋む扉を開けた。

 しかし……。


「……何だ、これは」


 直後、目にした光景に俺は絶句した。

 そこは確かに散らかっていた。所狭しと乱雑に物が積み上げられ、床の見える範囲は少ない。

 問題は、その積み上げられた物だ。燭台のオレンジの光に白く反射するそれは……。


 ――明らかに獣の物ではない、人間大のサイズの骨。


「……見ちゃったんだ」


 その声に、ハッと俺は振り返る。少し前に聞いたばかりの、しかし印象はまるで異なる、抑揚のないその声。

 現れたのは、散らばった骨よりもなお白い服。白い肌。白い髪。その中で、感情のない赤い瞳だけが妖しく暗闇の中に輝く。


「シャル、ロット……」


 俺は震える唇で、無表情に佇む少女の名を呼んだ。

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