還らずの館
由希
第1話 余所者を拒む街
街外れ、街道からも外れた丘の上にその館は建っていた。
いつから建っていたのか、街で最も長く生きた老人ですらも知らない。
しかし、街の人間は口を揃えてこう言うのだ。
あの館に近付いてはいけない。何故なら――。
あそこには、人を喰らって生きる魔物が住んでいるから――。
――まるで雪の精だ。
その少女を見た瞬間、真っ先に俺はそう思った。
「ちっ……こりゃ降るな」
どんどん空を覆い尽くす灰色の雲の層を見ながら、俺は小さく舌打ちした。
あまり整備されているとは言い難い石畳の街道には、人の姿は見当たらない。
緩やかな下り坂の向こうに見える街は小さく、寝泊まりする場所もろくにあるか怪しそうだった。
流れ流れて辿り着いた辺境、これがうららかな陽気でなおかつ懐も暖かければ感慨にも浸れたのだろうが、この今にも雪が降りそうな寒さと同様に金貨の一枚もない寒い財布の中身ではそんな感傷を抱ける筈もなかった。
俺は画家を生業としている。
幼い頃から絵が好きで、周りから上手だと誉めそやされた事もあり、自然とその道を志しそして都会に上京した。
しかし……広い世界に出てしまえば、俺の素人に毛が生えた程度の才能など相手にするものはなく。
それでも十年間、何とか懸命に頑張ってみたが結局目の出なかった俺は、期待をもって俺を送り出した故郷に帰る事も出来ず失意を胸に宛のない放浪の旅に出たのだった。
「うっ……」
辺りに、冷えて乾いた風が吹く。冬を迎えた山間から吹く風は、粗末な外套を纏っただけの身から体温を奪っていく。
「……急ぐか……」
これは酒場でウイスキーの一杯でも飲まなければ冷えは治まりそうにない。俺は止めていた足を動かし、目の前に見える街へと急いだ。
幸いに、街に入ってすぐに酒場を見つける事が出来た。
古木で出来た扉を開けると、けして多いとは言えない客や、従業員達が一斉に俺に視線を向ける。
「…………………」
無言の視線。浮かぶのは猜疑的な色。ふらりと現れた余所者の俺を、歓迎するものではけしてない。
……どうやら、この街では余所者は珍しいらしい。確かに、見るからに何もなさそうなこの街に好んでやって来る者などそうはいないだろう。
俺は視線を無視し、カウンターへと足を運ぶ。そして先客から離れた右端から二番目の席に座った。
「……注文は」
カウンターの向こうにいる、栗色の髪の髭面のマスターが無愛想に問い掛ける。同時に俺に注がれていた視線は散り、代わりに会話の声が辺りを支配した。
「ウイスキーを」
歩き疲れ棒のようになった足を投げ出しながら、注文を返す。マスターは、俺の身なりをジロジロと見聞しながら言った。
「先払いだ。金貨二枚」
「何だと?」
思わず眉が動く。金貨二枚もあれば、それなりの宿に泊まれる上に飯も出てくる。
「ふざけるな。暴利すぎる」
「嫌なら帰れ。こっちは余所者の相手なんてしている暇はないんだ」
睨み付けた俺に、マスターは冷たく言い放つ。……つまりはこう言いたいのだろう。余所者に出す酒などないと。
この街は旅人を歓迎しない。この短い時間で、それをありありと思い知った。
「……邪魔したな」
俺はわざとらしく大きな音を立てて席を立つと、大股に外へと向かった。顔をにやつかせながらこちらを見る客もいたが、無視した。
「……糞が」
小さく舌打ち毒づくと、俺は乱暴に扉を開け放ち冷たい風の吹く外に舞い戻った。
「あ……」
外に出るとすぐ、雪がちらつき始めている事に気が付いた。酒場にいた時間など、ほんの僅かだというのに。
俺は路銀を稼ぐ時は道端で似顔絵描きをやっているが、この天気では商売になどなる筈もない。つくづく運に見放されたか。
ボロの外套をなるべく寒さを軽減するように纏い直しながら、財布を開け中身を確認する。あるのは銀貨三枚と数枚の銅貨。
治安の悪い安宿程度ならこれでも泊まれそうだが……そう思った時、ふとさっきの酒場での出来事が蘇る。余所者に優しくないこの街は、果たしてこんなはした金で俺を休ませてくれるだろうか?
「……行くだけ、行ってみるしかないか」
考えても仕方ない。この寒さ、この天気で野宿をする事だけはどうしても避けたい。
さて、しかし宿屋はどこだろう。酒場と同じく、この中心通りのどこかにはあると思うのだが……。
「あんた、余所者だね」
その時、不意に声をかけられ俺は振り返った。そこにいたのは、長い白髪を後ろで束ねフードを被った、腰の曲がった老婆だった。
老婆はまるで魔女のような、ギョロリとした目で俺を射抜いてくる。そして、俺が返事をする前に口を開いた。
「この街に何をしに来た。ここにはこの通り、見るべき物など何もないよ」
「いや、俺は……ただの旅の途中だ。この天気では先に進めない、だから出来ればこの街で宿に泊まりたいんだが」
明らかに好意のあるものではない視線に居心地の悪さを覚えながら答えると、老婆はふん、と短い鼻を鳴らした。……何故、こんな責められているような気分にならなければならないのだろう。
ここまでの旅の間、歓迎されなかった事は別に珍しくはない。しかしここまであからさまに態度に出されると、流石に辟易する。
「この街に宿なんてないよ」
「何?」
「いくら街道の途中たって、ろくすっぽ旅人の通らないこの街じゃ宿を開いたって商売上がったりだからね」
……何て事だ。という事は、野宿するしかないという事か。こんな雪の日に。
「どこか泊まれる所はないのか?」
「さてね。手当たり次第にその辺の家でも訪ねてみたらどうだい? まぁ、この街に他人を泊める余裕のある家なんてないと思うけどね」
更に尋ねる俺に、老婆は素っ気なくそう答えた。老婆自身も、俺を泊まらせる気などさらさらなさそうだ。
「……解った。答えてくれて感謝する」
「ああ、そうそう」
なるべく早く寒さを凌げる場所を確保しようとその場を立ち去ろうとした俺に、老婆が思い出したように声をかける。俺は足を止め、再び老婆の顔を見た。
「街外れに建っている館は見たかい?」
「街外れ? ……ああ、そういえば」
言われてぼんやりと思い出す。街に入る少し前、他の建物から離れた場所に古い大きな館が建っているのを見た事を。こんな田舎には場違いに思える建物だったので、記憶に残っていた。
「それが、どうかしたのか?」
「いいかい、命が惜しければあの館には決して近付くんじゃないよ」
「何故?」
俺の率直な問いに、老婆はもう一度鼻を鳴らした。そして、忌々しげにこう告げた。
「あの館には、人を食う魔物が住んでいるからさ」
「魔物……?」
「忠告はしたからね。さっさとこの街を離れて道が凍る前に街道を引き返しな」
最後にそう言って、老婆は俺の横を通り抜け酒場の隣にある家に入っていった。それを見送り、改めて俺は歩き出す。
「……魔物、か」
どうせ、余所者の俺を街から追い出す為の方便だろう。魔物など、俺は信じていない。
魔物がもし本当にいるのならば……館になど引き込もっていないで、こんな小さな街などとっとと滅ぼしているだろうから。
踏み締めた石畳には、いつしか、うっすらと雪化粧が施され始めていた。
空を見上げれば、雪の量はますます増して辺りを覆っていく。
俺は結局、街を横切る川に架かる小さな橋の下に身を寄せた。
老婆の言う通り、この街を出て前の街まで引き返す選択肢もあっただろう。
しかし、前の街まではかなり距離がある。その上酒場で一杯やる事も出来ず、ろくに休息を取っていない今の体でそこまでの強行軍を行うのは体力がとてももちそうになかった。
もうすぐ夜が来るのだろう、空を覆う雲は大分その黒さを増している。そこに降り積もる雪の白さが映えて、まるで世界がモノトーンに染まっていくような錯覚に陥る。
この光景を絵に残せたら。そう考えて、俺は即座に自嘲の笑みを浮かべた。
……今の俺には、一本の鉛筆と、数枚の紙束しか残されていないというのに。このような景色を目にしたところで、絵に残す余裕などありはしないのに。
画家が生業などと言ったが、今の俺は、最早画家ですらない。ただの……浮浪者と変わりない。
外套を押さえる為に露出させた指先から体温が奪われ、感覚が失われていく。吐き出す息は雪のように白く、外套を纏ってなお防ぎきれぬ寒さに体は小刻みに震える。
ここで、死ぬのもいいかもしれない。不意にそんな事を、思った。
生きていても、どうせ希望などもう見えはしないのだ。ならばいっその事。
「……ねぇ」
その時だった。突然、傍らに薄い影が差したのは。
「…………?」
のろのろと、緩慢に首を上げる。そして、影の差す方向に目を向けた。
瞬間――目を奪われた。
「ねぇ、貴方」
まず目に飛び込んだのは、雪に光る短い銀髪。
「貴方、そんな所にいたら死んじゃうよ」
持つ傘も白。身に纏う、上品そうなワンピースも白。羽織ったストールも白。
「良かったら、私の家に、おいでよ?」
その中で、少し垂れ目気味の目。そして、ぷっくりと形の良い、三日月を象る唇。
その二つだけが、薔薇のように赤かった。
――まるで雪の精だ。
その少女を見た瞬間、真っ先に俺はそう思った。
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