第5話 贖罪の祈り
「私ね、自分がどんな顔で、どんな姿をしているか知らないの」
デッサンを始めて暫くして、不意にシャルロットがそんな事を言った。ずっと怒ったように黙りこくっていたが、どうやらやっと機嫌を直したらしい。
「何故だ? 鏡ならこの館にあるだろう」
「……私、鏡に映らないから」
「あ……」
当然の疑問にそう返されて、思い出す。確かに、伝承ではそうなっていた。
「……本当、だったんだな」
「うん。血を飲まないと生きていけなかったり、太陽の光が駄目だったり……誰が私を吸血鬼って言った訳じゃないけど、だから、私は自分が吸血鬼なんだって解ったの」
「……そうか」
自分の顔を知らないとはどんな気持ちなのだろう。そんな考えが、俺の中に生まれた。
今まで考えもしなかった。鏡や、ガラスや、水面だって。覗き込めば、そのものの姿を映してくれる。今日だって、鏡を見ながら俺は身なりを整えたのだ。
当たり前の事だった。だが、その当たり前の事が、シャルロットには当たり前ではないのだ。
「胸……盛ったのは、反省してる」
「え?」
突然そう続けたシャルロットに、思わず顔を上げる。シャルロットは眉を下げながらも、どこか吹っ切れた表情で笑っていた。
「ロディの言う通り。ありのままの私を描いて貰うんじゃなきゃ、意味ないもんね。今自分で言ってて、その事に気付いた」
「シャルロット……」
「描いて、ロディ。誤魔化さず、ロディから見たそのままの私を」
シャルロットの目が、真っ直ぐに俺を見る。その目を見返しながら、俺は小さく頷き返した。
……不思議と、嬉しかった。これまで誰にも肯定されずにきた信念を、肯定して貰えたようで。
「ねぇ、ずっと私の話ばっかりで恥ずかしい。ロディの話も、もっと聞きたいな」
「俺の……と言われても、旅の話は昨日……」
「旅をする前の話とか。どんな絵を描いたりしてたのかとか、聞きたい。嫌?」
「……そうだな……」
請われて少し考える。思い出すだけで気持ちが沈む記憶。
しかしそれはシャルロットも同じで。けして楽しくはないだろう質問にも、シャルロットはちゃんと答えてくれた。
ここで、自分の話だけ出し渋るのはフェアじゃない。そう思った。
「……俺の生まれた場所は、山間の小さな農村だった。決して豊かな土地じゃなかったが、村人全員が力を合わせ、助け合う、そんな村だった」
「それって素敵だね」
「そうだな。だが、昔の俺はそうは思わなかった。こんな田舎で、ただ畑を耕しながら一生を終えるなんて真っ平だ。いつも、そう思っていた」
言葉にしながら思い出す。かつてはあれほど疎ましかったその場所が、今となっては酷く居心地の良かったように感じるのは思い出が美化されているせいか。
「物心ついた時から、絵を描く事が好きだった。暇さえあれば鉛筆と紙を持ち出して、あらゆる風景を絵に残した。成長して、それはやがてこれで食っていきたい、成功したいという気持ちに変わっていった。友達も、近所の大人達も、村中の皆が俺の絵を褒めてくれた。ロディならきっと将来偉い画家になれると」
「皆が応援してくれたんだね」
「十八になった時、俺は決めた。都会に出て、本格的に画家として生きていこうと。皆が期待の目を寄せてくれたよ。お前なら絶対にやれると背中を押してくれた。……ただ一人、親父を除いて」
「お父さんは、反対したの?」
「ああ。人間堅実に生きていくのが一番だ、お前は周りに持ち上げられていい気になっているだけだとな。……自分は絶対に成功する、こんな田舎で終わる器じゃ絶対にないと思い込んだ俺は勿論、反発した。負け犬の理屈だとすら思った。結局仲直りはしないまま、半ば喧嘩別れのようにして俺は村を出た」
そこで一旦言葉を切ると大きく息を吸い、溜息を吐き出す。シャルロットはただジッと、話の続きを待っている。
「今にして思えば、親父は正しかったんだ。親父の言う通り、俺はただ、狭い世界でほんの少し、目立っただけの才能を鼻にかけていただけだった。それに気付いた時には……もう、遅すぎたが」
「……」
「都会に出た俺は、必死に、がむしゃらになって絵を描いた。お袋が持たせてくれたなけなしの金を食い潰しながら、とにかく絵を描いては画廊に持っていった。何度けなされ、馬鹿にされ、見下されても……けど結局、誰も俺の絵を認めてはくれなかった」
「悔しかった?」
「悔しい……最初はそうだったな。それがだんだん焦りに変わって、やがてそれも通り越し惰性のようになって……気が付いたら、何故自分が絵を描いているのか、その意味を見失っていた」
「絵を描くの、好きじゃなくなった?」
「解らない……それすらも解らなくなった。そんな時、同じ夢を見ていた親友がいたんだが……そいつが、死んでしまってな。それをきっかけに、俺は借りていたアパートを引き払い、道具を鉛筆以外総て売って……旅に、出たんだ」
話をしながら、いつしか鉛筆を持つ手は完全に止まっていた。その事に気が付いてはいたが、再び鉛筆を軽快に走らせるには気分が重くなりすぎていた。
俺は……俺は、何の為に生きてきたのだろう。夢の為に色々なものを捨てて、結局その夢さえも捨てて、今はもう何も残っていない。
俺の人生とは、一体何だったのか。この、ただただ無駄に消費されてきた時間は。
「……私は頭が良くないから、あまり難しい事は解らないけど」
その時、静かに相槌を打つだけだったシャルロットがぽつりと口を開いた。その目は優しく、俺を見つめている。
「絵を描く理由が解らないって言うけど、ロディは、やっぱり絵が好きなんだと思う。私には、そう見えるよ」
「……」
シャルロットの言葉に俺は答えず、代わりに鉛筆を動かし始めた。最初は純粋にそうだった。ただ絵が好きで、色々なものを絵に残したくて。
それが褒められたいからに変わり、自分を認めさせる為の手段に変わり……。どこで俺の道は、逸れていったのだろう。
……せめて、せめてこの絵だけは。昔の、ただ単純に絵が好きだったあの頃の気持ちに戻って描いてみようか。
そんな事を思った。……思わせてくれた。目の前の、この少女が。
「……春にはね」
顔は動かさぬまま、視線だけを窓にやってシャルロットが呟く。俺は鉛筆を走らせながら、それを黙って聞いている。
「変化の少ないこの土地だけど、春には、この館の周りが花でいっぱいになるの。私、その風景が凄く好き。ロディにも見せたいな。きっと、ロディなら描きたくて仕方なくなると思う」
待ち遠しそうな……けれどどこか悲しそうな。様々な感情が、ないまぜになった瞳。
何度も何度も花が咲いては散っていき……そうやって季節が繰り返す様を、ずっと見つめてきたのだろう。この場所で。たった一人で。
「……ああ。見てみたいな」
「うん。早く春になればいいのに」
そう言葉を返しながら、俺は、シャルロットが好きだと言ったこの窓の外に花が咲き乱れる美しい光景の事を想った。
どこか心地好い疲れに満たされながら、ベッドに横になる。外では夕焼けの光が雪に反射して、まるで世界がオレンジ一色に染まってしまったようだ。
シャルロットは実に良いモデルだった。ずっと同じ姿勢でジッとしているのは辛いだろうに、泣き言一つ言わない。おかげで今日のうちに、大方のデッサンを終える事が出来た。
今シャルロットは、厨房で今夜の夕食の準備をしている。手伝いを申し出たのだが、手間のかかる作業はないからとやんわりと断られた。
「……」
カンバスに鉛筆で描かれた、シャルロットの姿を見る。可愛らしい笑顔を浮かべた可憐な少女。誰が彼女を見て、人でないなどと疑うだろう。
いや……彼女もまた人なのだ、と俺は思う。ただ体の作りが違うだけ。自分を人間より上だと驕る事もない。彼女の心は、紛れもなく人間だ。
それだけに……辛いのだろう。人と同じに生きられない事が。人を糧にするしかない事が。
……死にたいなどと、殺せなどとよく言えたものだ。俺より厳しい現実を、懸命に生きる彼女に向かって。
どんなに辛くても、苦しくても、他人を傷付け生きる事に傷付いても……彼女は、それでも生き続けているのだ。
今なら少しだけ、あの時俺を殺すのを躊躇したシャルロットの想いが解る気がする。俺の前には、シャルロットよりも余程多くの可能性があるというのに……それなのに簡単に命を投げ出そうとする俺を、許せなかったのかもしれない。
「……どうしようもない馬鹿だな、俺は」
自嘲気味な笑いが思わず漏れる。故郷を立ったあの日から、俺は何も成長しちゃいない。いつも自分の事ばかりで、人の気持ちを考えるという事をまるでしちゃいないんだ。
「今からでも……少しぐらいは変われるだろうか?」
絵の中のシャルロットに、そう問い掛ける。答えなど返る筈はない事は解っていたが、それでも彼女の浮かべる微笑みが大丈夫だと、そう言ってくれた気がした。
都合のいい妄想でもいい。変わりたい。今までになく強く、そんな事を思った。
「ロディ、ご飯の支度が出来たよ。降りてきて」
その時小さなノックの音と、現実のシャルロットの声が俺を現実に引き戻した。俺はのろのろと身を起こし、扉の向こうに声をかける。
「ありがとう。すぐ行く」
「うん。冷めないうちにね」
遠ざかっていく足音を聞きながら、俺はまた、微笑むシャルロットの絵に視線を向けた。
――幸福な微睡みから、目を覚ます。昨日と同じ天井をぼんやりと見ながら、俺はのっそりと身を起こした。
朝晩しっかり食事を摂り、風呂を借りて体にこびりついた垢を落とし。そうやって一日中穏やかな時を過ごしたせいだろうか、昨日のような悪夢は見る事はなかった。こんな気持ちのいい目覚めなど、どれくらいぶりだろう。
背筋を伸ばし、窓の外を見る。朝になったばかりらしく、雲の少ない空を照らす太陽はまだ東の山から顔を出し切ってはいない。
地面に視線を落とす。白銀に煌めく雪は相変わらず辺りを支配していたが、冬の弱い太陽とはいえずっと日差しに照らされ続けた為かその量は昨日よりずっと減ったようだった。
「……顔でも洗うか」
自然とそんな事を思い、部屋を出て階段を降りる。そして洗面所に入ろうとした所で、廊下の向こうを歩く人影に気が付いた。
「シャルロット?」
まるで外で輝く雪のような、白く短い髪に白いワンピース。そうでなくてもこの館には俺と彼女しかいないのだから間違える筈がない。
シャルロットは俺には気付かない様子で、薄暗い廊下を奥へと向かって進んでいく。どこへ行くのか何となく気になって、俺は静かにその跡を追った。
幾つもの扉を通り過ぎ、廊下の角を曲がり。そうしてシャルロットが辿り着いたのは、地下室へと続くあの鉄の扉の前だった。
「地下室……? 一体、何の用で……」
あそこには確か、シャルロットの犠牲になった者達の骨以外何もなかった筈だ。入ったのは一回きりだし好んで見回した訳ではないから、特別自信を持ってそう言える訳ではないが。
鉄の扉が軋みを立てて開き、シャルロットがその中に消える。俺は一瞬迷ったが、シャルロットが気になる気持ちには勝てずにすぐさま燭台を取りに食堂へと急いだ。
降りるのが二度目になる地下への階段はやはり真っ暗で、冷たく、そして不気味だった。その先にある物を知っている分、その思いは嫌が応でも強くなる。
念の為、なるべく足音を立てないようにして慎重に階段を降りていく。こうしてシャルロットの跡をつけ回している事に、若干の罪悪感はあったがそれで足が止まる事はなかった。
終点には一度降りたせいだろうか、前よりも辿り着くのが早く感じた。突き当たりの扉に覗き窓などがない事を改めて確認すると、俺は取っ手に手を掛けゆっくりと開く。
――それはまるで、天使の祈りのように見えた。
オレンジ色の薄明かりに照らされたのは、予想通り、シャルロットの後ろ姿だった。やはり俺には気付く様子はなく、手を前にしてただ俯き立ち尽くしている。
そっと前方へと回り込むとその両手は胸の前で組まれ、俯いた顔を覆う前髪の隙間からは固く閉じられた瞼が覗く。後ろ姿から想像した通りシャルロットは一人この暗闇で、一心に祈りを捧げていた。
……天使の、ようだった。
「……ロディ?」
その姿に見惚れ、思考を失っているといつの間にかシャルロットが祈りを終え、顔を上げていた。赤い瞳の中に小さな炎が反射し揺らめくのを見て、漸く俺は我に返る。
「どうしたの? こんな所に……」
「い、いや……」
向けられる素朴な疑問に急にバツが悪くなり、言葉を濁す。お前の跡をつけた……とは、何とも本人には言い難い。
「……ふふ、いいよ。少し、恥ずかしい所を見られちゃったけど」
何とか言葉を探し出そうとする俺に、しかしシャルロットは小さく笑いそれ以上追求しなかった。……どうやら、怒ってはいないようだ。
「ここはね、お墓なの」
人骨の山に視線を移し、シャルロットが続ける。俺も釣られるようにして、薄明かりの中に仄かに白く光る屍達を見た。
「人は、死ぬと、土の下に葬られて供養されるんでしょう? けど、表立って外にお墓は作れないから……代わりにこの地下をお墓にしてるの」
「……そして、さっきみたいに祈りを捧げている?」
「……この人達は、きっと私なんかに祈られたくないだろうけど。祈れるのは、私しかいないから……」
そう言ったシャルロットの睫毛は悲しげに伏せられ。シャルロットと屍を見比べ、俺は憐憫の情が胸に込み上げるのを感じた。
……彼女は、世界から見て悪かもしれない。許されてはいけない存在なのかもしれない。少なくともこの屍達は、今もそう思っている事だろう。
けれど俺には、彼女を責める事は出来ない。死にたくない、それは生きとし生ける者なら誰でも抱く本能だ。
俺達は毎日の食事を摂る時、家畜の死を悼むだろうか。作物の死を嘆くだろうか。
それらは食べる為に育てられたのだと、そう言ってしまえばそれまでだ。けれどそれすらも、食べる側である人間の傲慢でしかないのではないか。
他の何かの命を食い繋いで生きる、そんな当たり前とされる行為で彼女のように罪悪感を抱く者など、いや抱かねばならない者など人間の中にどれほどいるだろうか――。
「……どうして」
気付くと、シャルロットの声が微かに震えていた。その横顔は泣き出しそうに歪み、固く握った拳は小さくわなないている。
「どうして私は、吸血鬼として生まれたんだろう。どうして人と同じに生きられないんだろう。どうして人の血を飲まないといけないんだろう。どうして……」
「……シャルロット」
それは口調こそ静かだったが、まさしく魂の叫びだった。胸の中にずっとわだかまってきた想いを、シャルロットは今、耐え切れずに吐露しているようだった。
……胸が、苦しかった。俺が持っている当たり前を持っていない彼女。きっとずっと、自分が人でない事に苦しんできた彼女……。
「……!」
気が付くと俺は、燭台を手放しシャルロットの小さい体を胸元に強く抱き寄せていた。……それしか、今の俺に出来る事はなかった。
彼女が血を求めるなら、いくらでも俺の血を分けてやりたい。だが……それは彼女を生かす事は出来ても、彼女の苦しみを癒す役には立たないのだ。
「泣いていい」
暗闇の中手探りで、いつかのように頭を撫でる。掌に触れるシャルロットの髪は、赤ん坊のように細く柔らかかった。
「泣き止むまで、こうしてるから。……今だけは、思い切り泣いていいんだ」
「……うっ……」
シャルロットの体が小刻みに震える。抱き締める力を強めてやると、やがて小さな嗚咽が耳に響いた。
「ごめっ……なさ……ごめんなさっ、ごめんなさいごめんなさい……!」
泣きながら、繰り返し繰り返し謝罪を口にするシャルロット。俺は彼女が泣き止むまで、ずっと、その頭を撫で続けた。
その行為が、少しは彼女の救いになっていると信じて――。
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