ケダモノたちの街

河原吉光

プロローグ

 午前二時。騒がしいぐらいの静寂に包まれ、空には三日月が上がっているが、煙霧えんむに隠れて輪郭はハッキリとしない。死にかけの蠅がゴミ箱からフラフラと飛び回り、やがて地面に虫の息で横たわる誰かの頭に不時着した。

 そんなことはまるで知らずに、嗚咽混じりの声にならぬ声が甘い煙の舞う裏路地に響き渡る。白いワンピースを着た少女が泣いているのだ。足元には無数の注射針が転がっているが、そんなことは気にも留めない。

 「嬢ちゃん」

 傘を差した男が少女に声をかける。

 「こんな時間にほっつき歩くもんじゃないぜ、ここが危ないのは知ってんだろ」

 少女は顔を上げようとはしなかった。

 「…まあ、お前みたいなのは大方何が起きたか想像が付かんわけでもないさ。お前親いねえだろ。もしくは親がいなくなったか」

 それまで反応を示さなかった少女は首を微かに動かす。頷いているつもりらしい。

 「この街じゃ珍しくない話さ。お前みたいなのを俺はいっぱい見てきたからな。」

 そう言うと彼はガサガサと物音を立てる。何やらスーツから何かを出しているようだ。

 「困ったらここに、いやすぐにここに行きな。さっさと行かないと死ぬか…」

 彼は少女の頭頂に「カーチス孤児院」と書かれた紙を置くとスタスタと歩き去る。

 「死ぬよりひどい目に合うさ」

 




 男が去って数分。少女は顔を上げて、腫らした目の涙を手で拭った。裏路地を抜けた大通りの方に目をやると、小汚いスーツを着た五人ほどの男たちが汚い銃を腰に巻き汚い笑い声を上げながら汚い地面を歩いている姿が見えた。

 …あいつらだ。

 男たちの顔を見た少女はゆっくりと立ち上がり、息を殺し、足音も立てずに裏路地を歩いた。

 少し歩くと頭から何かが落ちた。彼のくれた「カーチス孤児院」と書かれた紙だ。住所も書いてある。ここに行けば、安全に暮らすことも可能だろう。

 …うるさいやつだったな、あいつは。

 少女は彼のくれた紙をビリビリに破り捨て、裏路地を歩き続けた。

 近付くにつれて男たちの声が聞こえる。

 「…そんでさ、嫌がってたけどあの女にしてやったらヒーヒー言いやがってさ、聞いたことのないような声で『離して』って喘ぎやがってよお。やっぱアレはすげえよなあ」

 セパレイター。その単語を聞いた少女は確信した。

間違いない。あいつらが。あいつらが私の母を。

 大通りから十メートルほどの距離に差し掛かると、少女は近くにあった埃のかかっている緑のゴミ箱の蓋を開けた。生ゴミや注射針が捨てられている中に似つかわしくない、清潔な状態の分厚い聖書が混じっている。

 …父さんが言っていたものは確かにこれだ。「危なくなったらこれで身を守れ」と言っていた。これで。これで奴らを。

 聖書を手に取ると、わざとらしく目に付きやすいようにフラフラとした足取りで大通りの方へ歩いた。裏路地から出てきた少女を見つけた男たちは汚い笑い声を上げたまま近くに寄る。

 「おやおや、こんな真夜中にどうしたよ嬢ちゃん。こんなとこじゃ聖書なんかハスラーよりも需要がないってのによ」

 少女は微かに顔を見上げて男たちの顔を見た。穢らわしい笑みだ。その目を見ただけで何を考えてるかぐらいは大体の想像がつく。吐き気を堪えて、少女は静かに口を開いた。

 「わたし、母さんのこと好きだったんだ」

 唐突な発言に男たちは顔をしかめた。

 「けして裕福な生活なんかじゃなかったけど、一緒に食べるポトフはおいしかったし、一緒に寝るお布団の中は暖かったし、いっつも楽しかった」

  男たちは少女の顔をじっくりと見つめる。

 「なあ、こいつキマッてるわけじゃないだろうな?」

 「いや、それにしては目は据わってるぜ」

 男たちが顔を見合わせあれだこれだと話をする中少女は一段声を張り上げる。

 「モナ・タルボット」

 少女がその言葉を口にした時、静寂が大通りを包み込んだ。ささやかな風が、その場にいる全員の顔を掠める。

 「それが私の母さんの名前」

 突然、男達の一人が笑い出す。

 「お前、あいつの娘か」

 髭面で帽子を被った、身長の低い集団のボスのような男が口角を歪めて少女の顔を見る。

 「チビにもわかるように説明してやるよ」

 ボスがおもむろにポケットから葉巻を取り出して咥えると、他の男たちのうち一人もポケットからジッポを取り出し、葉巻に火をつけた。どうやら周りの男たちはみんな、あのリーダー格の男の手下らしい。

 「失礼します、ボス」

 手下はジッポをしまい、後ろに下がろうとした時に、おい、とボスから声をかけられた。

 「てめえみてえな嗜好品にミジンコほどの興味もねえような貧乏人には分かんねえだろうから教えといてやるけどよ」

 男は手下の正面に立って鋭く睨みつける。

 「オイルの臭いがつくからシガーにジッポは使わねえんだよ」

 ボスが腰に巻いてある銃に手をかけたのを見た手下は一目散に逃げるが、もう遅い。

 「マッチを使うんだよ、覚えとくといいさ」

 冷淡な手つきで素早く銃を抜くと、手下の頭めがけて発砲した。乾いた爆発音に、少女は短く悲鳴をあげるが、周りの手下は何も反応を示さない。

 ボスの撃った弾は命中したようで、手下は走り込む形で転んで倒れこみ、そのまま動くことはなかった。死んでしまったのだろうか。見たことないけどきっとそうなんだろう、と少女は混濁する頭の中で妙な納得をした。

 「そっちで親父さんに会った時のための勉強になっただろうよ、さて…」

 葉巻を手に持ち煙を吐きながら、今度は少女の顔を覗き込んだ。

 「恐れることはない。ただ話を聞いてくれればいいんだ。理解してもらいたいだけさ、我々のやり方というやつを」

 少女はボスの目を見つめたまま、呆然とした。それと同時に、葉巻に火をつけてから十秒も経たずして、いとも簡単に人を殺せる目の前の男に底知れぬ闇を感じ、恐怖した。

 「そうそうモナさんの事なんだが…本当に気の毒だった。しかし仕方のないことでもあったんだ。わかるだろう、君の父さんであり我々の仲間でもあったオットー君が我々の情報をダープ・カルテルに売って儲けていることがわかってね」

 ボスは淡々と話す。少女は目を見つめたまま動かずに黙って聞き続ける。

 「この街の住人ならわかるだろう?『しくじった奴なんかは楽に死ねやしねえ』っていう言葉…我々のモットーだよ。オットー君は単なるしくじりではなく意図的に、我々の大事な情報をばらまいてくれた、それこそ…」

 少女から顔を逸らして、霧のかかる三日月を眺めたまま紫煙を吸い込む。

 「大事な大事な我々の会合場所から、セパレイトの精製方法まで持ち出してくれた」

 話を聞いているうちに、少女は違和感を感じた。ふと腕を見ると、肌にびっしりと鳥肌が立っているのだ。なんとなく、あの男によるものであることは理解できた。

 「そんな事までしてくれたオットー君に死などという永遠の眠りにつくような逃げ道を作るわけにはいかない。生きたまま、我々の持てる全ての手段を持って、五感全てを絶望に追いやる…それが我々のやり方さ」

 紫煙を吐き出すと、少女の方を向いた。震えが走り、足がふらついて転びそうになるが、それでもボスの方から目を逸らさない。

 「だから、モナさんに協力してもらったのさ」 

 目を見開いて、この世のものとは思えぬ表情でボスは笑う。母がかつて読み聞かせてくれた絵本の中の、地獄の悪魔の顔にその顔はよく似ていた。

 「セパレイトは水に溶かして血管に直接打ち込んで接種する事でヘロイン程度の効果を得ることが出来るが、原液をそのまま体内にぶちこめばそれは理性を忘れセパレイトを求めるだけの本能に生きるだけの獣に変わる。いわゆる『セパレイター』というやつさ…ああ、君はもう見たかいあのモナさんやつ」

 依然として少女は黙っている。

 「あの状態でセパレイトを与えればケダモノに変わるのさ。最高だったね。そうだろうオッジよお?」

 後ろにいる手下の肩を小突く。突然のことで驚くオッジと呼ばれた手下は、ええ、ああ、はい、と適当な返事をする。

 「やはりそう思うよな、なんといっても特に最高だったのはな…」

 「知ってるよ、そのくらい」

 少女が口を開いた。

 「私だって父さんからその辺は聞いてるの。耳にタコができるほど聞いたわ。そんなつまらない話するぐらいなら、私にも言いたいことはあるの」

 少女はさらに声を張り上げる。覚悟を決めたような声をしているが、その手は震えている。

 「ほお、なにを言うっていうんだい」

 少女はそれまで手に持っているだけだった聖書を開く。それを見たボスの大笑いが大通りに響く。

 「今から説教でもするつもりか!?」

 少女は冷めた表情で笑い続けるボスを見つめる。

 「貴方みたいな不信心に溢れる人間は知らないだろうけどこんな言葉があるの知ってる?」

 すると、突然少女はボスのいる方向に聖書を投げつけた。唐突な出来事だったが、ボスは葉巻を捨てて投げてきた聖書をキャッチする。

 「おいおい、人に不信心が云々とか言っといて聖書投げるだなんて不敬にも程が…」

 言いかけたところで、ボスは口をつぐんだ。そして手に持った聖書に目をやる。投げつけられた聖書が、妙に軽いのだ。こんなに、こんなに分厚いはずなのに。

 「なんだ、これは」

 訳がわからずボスは聖書を開くと、確かにそれは普通の本のように見えたが、何かがおかしい。何か違和感を感じる。よく見てみると「HOLY BIBLE」と書かれている一ページ目の真ん中にへこみがあるのだ。まさか、と思いページをめくる。

 二ページ目には、きちんと二ページ目であることを示す「2」の文字が見えた。しかし、二ページ目に写っているものはである。つまり、この聖書は二ページ目以降の全てのページの大部分がくり抜かれており、本来目次があるであろう二ページ目には、背表紙の裏が見えているということだ。

 二ページ目をくり抜いた先に見えるその背表紙には殴り書きでこう書かれていた。

 「目には目を」

 少女の方に目をやると、少女は拳銃を持ってボスを睨みつけていた。

 …なるほど。ボスは少女が何をしたのかをなんとなく理解した。

 「お前、この聖書の中にベレッタでも仕込んでやがったな」

 ボスは先程のように悪魔のような笑みを浮かべる。少女はまたしても鳥肌が立ったものの、それを表情には出さない。

 「キリスト様もまさか、聖書をホルスター代わりに使われる日が来るとは夢にも思うまいよ」

 長年命のやり取りを交わした経験のある男から見れば、その目は明らかな殺意を持ち、確実に目の前の相手を殺してやる、そう言わんばかりのケダモノのような目をしていた。

 「貴方の後ろの木偶の坊達がちゃんとしてれば、助かったかもしれないのにね」

 手下は依然としてボスの後ろで待機したまんまだ。銃を持つ少女を見てもピクリとも反応しない。

 「寂しい人ね」

 「はは」

 ボスは両手を上に上げる。

 「こりゃ一杯食わされたんじゃないかね」


 一発の銃声。




 「ああ、助かったよ」

 銃声とともに倒れたのは、ボスではなく、銃を持った少女だった。撃ち抜かれた右目がダラリとだらしなく垂れ、頭から倒れる。首が曲がらないはずの方向に曲がるのを見て、少女の真後ろにいたヒットマンであるジュールスは彼女が死んだことを確認した。

 「ボス、ご無事で?」

 「ああ、なんとかな。強いていうなら…」

 ボスはスーツのポケットを指差す。ジュールスは近づいて見てみると、赤いシミがついている。あの少女の血飛沫がスーツに舞ったのだろう。

 おい、と合図するとオッジがスーツを脱がした。

 「まあ、まさかあっちの方から出向いてくれるとは好都合だった。監視だけ頼むつもりだったがいきなりの仕事もこなしてくれて御苦労だったな」

 「ええ、まあ…すまないな、お前ら。きちんと手を出さずにいてくれたからこいつを楽にやれたよ」

 ジュールスは手下達に礼を言うと軽蔑するかのような目でボスの方を見る。

 「それよりあんな悪趣味なものを見せられるこちらの身にもなってください。子供の目の前で集団レイプした後バラすようなスナッフビデオ顔負けのプレイ見せられるぐらいならアタック・オブ・ザ・キラートマトでも見ていた方がマシです」

 ジュールスは手下達の方に目をやる。

 「彼らも立場上そんなことは言えないでしょうけど、きっとそう思っているはずです」

 「ああ、すまないね。つい興奮しちゃって…でもいいだろ」

 ボスは足で少女の体を蹴り飛ばす。鈍い音がしたので、多分肋骨が折れたのだろう。

 「これで母と子と、天国で一緒じゃないか」

 高笑いを上げていると、ゆっくりとリムジンがやってきた。

 「それでは、私はこれで。ああ、この話をする時のオットー君の表情が楽しみで仕方ないよ…君も乗っていくかい?」

 「私は遠慮しておきます」

 「ああ、そうかい」

 ボスは車内に乗りこんだ。

 「お前ら、それ片付けとけよ」

 ボスが手下達に声をかけ、ドアを閉めるとまたゆっくりとしたスピードでリムジンは走り出した。

 それに合わせて、手下達も忙しなく死体を片付け始めた。

 手下達が先に仲間の死体を片付けている中、ジュールスは少女の方を見る。撃ち抜いた眼孔の奥から流れ出た血が血だまりを作り、血だまりは次第に広がり少女の白いワンピースの肩を赤く染めた。

 「だから、今すぐ孤児院に行けって言ったのに」

 ジュールスは懐から白い花を出して彼女の近くに添えた。

 「これはマーガレットだ。真実の愛って花言葉がある。母さんのところに持っていきな」

 そう言うと、ジュールスは足早に大通りを去った。




 「くそが」

 オッジが悪態をつく。

 「やってらんねえなあ、ちくしょう」

 「ああ全くだ」

 フレッツォはそれに同調した。死体の片付けほど面倒なものはない。街を汚すのが嫌いなボスは綺麗にしないと機嫌を損ねるし、臭いはつく、血はつく、死体の処理はここから3キロほどの森に捨てて来なければならないし、憂鬱になるのも無理はなかった。

 そもそも今日の仕事が酷かった。セパレイトの管轄にいたオッジ、フレッツォ、バーニカ、デレクの四人とボスが直接出向き、裏切り者であるオットーの家族に報復をするという仕事だったのだが、このボスがとてつもない変態であり、セパレイトを原液でキメた状態…つまりセパレイターの状態で彼の妻を犯そうというのだ。初めて間近でセパレイターを見たが、想像していたよりもずっと酷く、さっきまで「娘には手を出さないで」と言っていた女が数分したら娘のことなどそっちのけでセパレイトを接種し、獣のようにボスに馬乗りになり…胸糞悪い光景だった。

 オッジ達もその女を犯したが、あまりにも気分が悪く吐いてしまった。それを見たボスが「素晴らしい」と抜かして…嗚呼、ここから先を思い出せば発狂してしまいそうだ。

 あの惨劇の後に家に帰ってきて、命を狙われたあの娘が不憫でならないが、オットーがそれほどのことをしてしまったのだと思うと仕方のないことに感じてしまう。

 その時に、完全にこの街に染まってしまったとオッジ達は身に染みて理解した。

 「俺たちも、いつかはこうなっちまうのかな」

 バーニカが頭を撃ち抜かれたデレクの方を見ながら言う。そういえばバーニカはデレクと仲が良かったらしい。彼の気持ちを思うといたたまれないが、一度感傷的になればもう戻れないのをオッジ達は知っていた。

 「今じゃなければなんでもいいんじゃないか」

 「そうだ、今生きていればなんでもいい」

 バーニカに対し言ったはずが、まるで自らに言い聞かせるように地面の血だまりを洗う。

 ひとしきり洗い終わり、バーニカが死体を背負うと、オッジに聞いた。

 「車出してくれねーか、フレッツォ」

 フレッツォは無言で車を取りに行く。

 「なあ」

 バーニカが下を俯いて、独り言のように言う。

 「逃げよっかな、俺」

 オッジは笑った。その目は死んだままだ。

 「はは、無理な話さ」

 バーニカはため息をつく。

 「そうだよな、ボスから逃げることなんて不可能だろうし」

 「いや」

 言いかけたところでオッジが止める。

 「それ以前にわかりきってる話だろ」

 笑みを浮かべたままオッジは枯れた声で呟いた。


 「この街からは逃げられやしないよ」

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ケダモノたちの街 河原吉光 @Yoshimitsu1800

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