第2話

 ゴーン……ゴーン……。

 空のグレーが薄くなり、重苦しい鐘の音が鳴る。陰鬱いんうつな街の朝の合図を耳にして、ウィリアムはブランコに腰かけたまま目を開けた。

 ぼやけた視界。頭の痛みは二日酔いによるものか。うめきながら立ち上がると、膝と腰が鈍く痛んだ。

「ぐぅ……いつつつつつ……」

 腰をさすりながらまばたきすると、視界のもやが晴れてくる。焦げ臭い空気を肺一杯に吸い込んで、ようやく景色がはっきりしてきた。同時に、波打ち際めいて押し寄せてくる、自分を取り巻く嫌な現実。

(酒が欲しい。手持ちの金は……いくらあったか)

 そんな風に考えて、ウィリアムは溜め息交じりに肩を落とした。

 この街に来て間もないころの話だ。たまたま通りがかった路地で、酒浸りになった底辺フェルの男たちが座り込み、覚束おぼつかない呂律ろれつを駆使して不幸自慢に興じていた。因縁をつけられそうになったウィリアムは、足早に去りつつ思ったものだ。自分は、ああはなるまいと。

(それで、このザマか。これじゃあ、あの時の男たちを笑えないじゃないか)

 一体どこで間違えたものか。ここ数ヶ月、何度も繰り返した問いを反芻はんすうする。結論はいつも出ず、泡のように浮かぶのは、言い訳めいた『ベストは尽くした』、『あれが全力だった』という虚しい言葉だ。そうして逃げるように酒屋を訪れ、酒を呑み、何もできないまま立ち去っていく。

 目元に暗い影を落とし、ウィリアムはポケットから取り出した財布を開く。中には薄汚い銅貨が数枚ある程度。酒はおろか、子供の駄菓子すら買えまい。金策が必要だが―――今更働く気にもなれず、そもそも雇ってくれる場所に心当たりが無い。

 もう一度本を書いてチャンスを狙えば、などという考えはもう捨てた。その甘い見通しに、何度痛い目を遭わされただろう。いっそみずぼらしい我が家でカビる、絵筆や家財を売り払うか。昨日拾った、自分の本より金になるはなるか―――。

(昨日……)

 そこまで思考を巡らせて、ウィリアムは不意に思い出した。昨日の出来事。ブランコで酔いつぶれて寝る直前に会った、少女のことを。自分を見つめる、純粋な瞳を。

 ウィリアムは右手の平を額に押し当て、空を仰いだ。今日も曇りだ。

(あの子は、一体なんだったのか。そういえば、私は自分の本をどうしたのだったか)

 その場で辺りを見回すが、それらしきものは転がっていない。曲がりなりにも日が昇り、夜より明るくなった周囲は様々なゴミとサビにまみれた遊具が散らばっている。本も一冊落ちていたが、文庫本で絵本ではない。当然、ウィリアムの手にもない。

 自分の周りにないとなると、思い当たるフシはひとつしかなかった。

(まさか……あの少女が持っていったのか? 私が捨てた、あの本を? 面白くないと、言っていたのに?)

 湧き上がる疑念を消そうとするたび、あの少女の顔がはっきり脳裏に刻まれてくる。

 酔っ払った末に見た夢、病んだ心が見せた幻影。そう思い込もうとするが、彼女の真っ直ぐな目を何故か忘れることができない。同時に、彼女が何気なく言った言葉もだ。

『これ、おじさんの?』

『いらないの? つまんないから?』

 頭の中で無垢な声が反響した。

 昨日、うっすら覚えている限りでは、酒の勢いに突き動かされて少女の胸倉をつかみ上げたはず。なのに今、ウィリアムの胸を満たすのは、心臓を焼くような怒りではない。頭蓋の中で何かがカラカラと鳴るような、泣きたくなるような虚しさだった。

(何故だ)

(あんな、子供の言葉を気にしてるのか? あれよりひどい批評なんて、飽きるぐらい聞いただろう)

(それともあの子に怒ったことか? あれは向こうの無礼にだって原因があるじゃないか)

(だったら、本を持っていかれたことが気になるのだろうか。誰も見向きしなかった本を。あの子だって、つまらないと言っていたのに……)

 ブランコの前で突っ立ったまま、ウィリアムは堂々巡りに考え続けた。

 やがて、カラスたちが公園に散るゴミから餌を探すべく降り立ち、跳ね回り始めた頃。ウィリアムはブランコに腰を下ろした。胸に諦め混じりの決意を固めて。

(あの少女は、またここに来るだろうか)

 仮に少女が来たとしてどうするべきか、考えは特に持ち合わせていない。だが、自分の絵本を持つあの薄汚い姿は、どうにも脳裏に焼き付いて離れないのだ。

(どうせ金も仕事も無い。家に戻ったところで、やることも無い。それなら、また彼女が来るのを期待しよう)

(ひとまず、子供相手に怒ったことを、謝らねばな……)


 四六時中曇った空は、時を追うごとに黒ずんでいき、公園にもまた夜の帳が降りてくる。

 外周を取り囲むように建てられた街灯が、安っぽいガスを噴出音を立てながら白い光を点けた。ガラスで出来たランプボックスの中には蛾を始めとした蟲が生死問わずひしめいており、新たな羽虫が飛び込んでいく。

 ウィリアムはブランコに腰掛けたまま、彫像めいて動かずにいた。

 飲まず食わず、ただひたすらに少女を待つ。元より酒を買う金も無い。誰も来ない公園で、何をするでもなく。

 時折、彼を死体と勘違いしたカラスが肉をついばみに近づいて来たが、ウィリアムのギラついた目に睨まれて逃げていった。実のところ、ウィリアム自身死にそうなほど腹が減っていたが、その眼光は強い意志を光らせ続ける。

(……まだか)

 とりとめのない思考が、水中の泡めいて浮かび上がってくる。

(あの子は、まだ来ないのだろうか)

(それとも、昨日はたまたまここに来ただけで、いつも来るわけではないのだろうか)

(何日も……あるいは、もう来ないのかもしれないな。私のような男に怒鳴られては……)

(だが、私は待たねば。このまま飢えて死のうとも、私は……)

 独白を繰り返す中で、ウィリアムの目蓋が少し下がった。目がカサカサし、眼球の下から涙があふれてくるのを感じる。視界がぼやけ、点々と立つ街灯の光が不鮮明になっていく。

 時刻はもう真夜中だろうか。公園を囲むように立つ住宅の全てに明かりは無い。既に皆寝てしまったのか、それとも住民などいないのか。やがて、ウィリアムが目を閉じ、舟をこぎ始めた頃。彼の左耳に、空き缶を蹴る乾いた音が飛び込んだ。

「ん……?」

 目を開け、背を伸ばして音のした方を見る。虫まみれの街灯の下で、あの少女が佇んでいた。小脇に、あの時の絵本を抱えて。

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スターゲイザー 闇世ケルネ @seeker02

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