スターゲイザー

闇世ケルネ

第1話

 著者より


 この絵本を手に取った子供たちと、そのご両親へ。

 

 今、この本を読み終えた君は、一体何を思うだろう?

 夜空の彼方かなたに輝く星と、そこに息づく人々のこと?

 それとも、月のように輝く花と、空を旅する王子のことかな?

 将来、どこかの星に辿り着いた自分のことを考えたのかも。

 いずれにしても、私の想像より遥かに壮大で、輝かしい夢を見ているのだろう。私の本より豊かに、色鮮やかに描き出された物語が、君の中にあるのだと私は信じて疑っていない。

 そんな君にお願いがある。どうか、君が見た夢を、言葉を尽くしてご両親に語って欲しい。そしてご両親の方々には、ご子息と共に、ご子息の語った夢に浸って頂きたいのです。

 ベッドの中で、寝物語に語られたそれは、夜空にまたたく星と同じで、手を伸ばしてもつかめないものかもしれません。けれど、どうか否定しないで。我々もまた星の落とし子。元は子供だったもの。いつしか地に落ち、世間の泥にまみれた存在。しかし今は、星を抱いてはぐくむ人々。

 明日の朝に目覚めるとしても。例え夢無きリアルが半日とせず訪れようとも。今、この時だけは、思い出して頂きたい。無邪気な空想に遊んだあの頃のことを。あなたの隣で夢見るだろう、あなた自身の星と一緒に。

                 ――――『君と夜空を』ウィリアム・グラフ



 貪暗どんあんな夜だった。

 二階建て石造り建築の建物が並ぶ街は、まるで死んだような静けさをはらむ。地面を包む薄汚い霧。人も入れぬ家と家の隙間では、肥えたドブネズミが群れを為して通りをにらむ。エサとなるゴミ、ないしは何かの死体を求めて。

 道を点々と照らすガス灯の列が、ハエの羽音じみた音を鳴らした。黒い空は黒灰色こっかいしょくの雲に覆われ、カラスも飛ぼうとしない有様だ。ここは『曇天街クラウディ・シティ』。ぎらつく欲望、汚れたマネー、そして工業排煙ガスで満たされた世界だ。

 ゴーン……ゴーン……。鈍い鐘が街に新たな時刻を告げる。しかし今は深夜の三時。娼館ですら明かりを落とす現在において、重苦しい低音を聞く者はいない。ただ一人、本屋にたたずむ彼を除いて。

 大穴がいくつも開いたボロボロのコート。髪は自分で切ったのか荒れ放題で、頬はこけ、目はくぼみ、頬からあごにかけてが無精髭ぶしょうひげで覆われている。だらんと下げた右手には酒瓶。およそ浮浪者じみた姿をした男の名は、ウィリアム・グラフ。曇天街人口の三割を占める、『底辺フェル』と呼ばれる者たちの一員である。

「…………」

 ウィリアムは無言で、本屋を閉ざすシャッターの足元、無造作に置かれたダンボール箱に目を落とす。

 中身は全て本であり、大小ハードカバー文庫本ジャンルを問わず、紙クズめいて適当に突っ込まれている。雨風にさらされヨレヨレになった『全品無料』の張り紙が虚しい。これらは全て、駄作と言われた余り物。売れない不良在庫の山だ。

 屈みこんだウィリアムは、箱を漁って一冊の本を引っ張り出した。横に長い絵本で、表紙は大きなベッドに横たわる太った王が赤子じみて泣き叫ぶ絵。タイトルには『わがままな王様に捧げる音楽Music for Selfish King』。著者名、ウィリアム・グラフ。

 ウィリアムは溜め息を吐き、自著じちょを手に立ち上がった。酒をラッパ飲みしながら歩き出す。空になった瓶を捨てると、破砕音に驚いた猫が逃げ出した。

「くそったれめ……」

 毒づく声に力は無い。とぼとぼと夜の街をきながら、ウィリアムはおのなげく。

 人と金が密集する街、曇天街クラウディ・シティ。様々な人間があらゆる分野で成功し、貴族めいた生活を手にする夢の国。だが、一攫千金を望んで来た者の多くは後になって知る。誰もが成功するわけではなく、運の良い一部の者が成り上がれるに過ぎないのだと。

(そして、私に運は無かった)

 ウィリアムが街灯の下を抜け、夜闇に踏み込む。

 ウィリアム・グラフ。職業は絵本作家。幼少期から本に親しみ、読書を愛し、ペンをってかせぐ未来を願った。しかし、現実は非情であった。女でひとつでウィリアムを育てた母親は、彼の夢に罵声を浴びせた。

『本を書く!? 馬鹿なことを言わないで! それが一体いくらになるの!? 本なんて読んでないで勉強して! そしたらいい仕事について、いい人と結婚して、楽に生活できるんだから!』

 子供を育てたからと言って、親に愛があるとは限らない。ウィリアムは母の愛が自分ではなく、将来裕福になる誰かに向いているのだと思った。有益な仕事も、生活の向上も、全てはウィリアムではなく母親自身の幸せのためだと。

 結果、ウィリアムは家を離れて図書館に通い、幾多の本を紐解ひもといて、やがて家出じみてこの曇った街に乗り出した。薄汚い街並みの、薄汚い路地裏の家で筆を取り、今に至る。浮浪者紛いの、売れない絵本作家に。

 ウィリアムは暗がりの中、自分の本に目を落とす。

(私なりに趣向を凝らし、長い時間をかけてアイデアを練った)

(何度も推敲を繰り返し、これ以上ないと言える出来栄えに仕上げた)

(なのに、何故だ? どうして売れない? どうして誰も認めてくれない? 何故誰一人として賞賛しない? 一体どうして……)

 自問自答を繰り返していたウィリアムは、気づけば無人の公園に居た。チェーンの錆びたブランコに腰掛け、両膝に腕を乗せて項垂うなだれる。

 筆を執って五年が経った。出した本は十冊を超えた。幾度の挑戦を経て、次こそはと題材探しから力を入れて、努力を重ねた。――――なんにもならなかった。

「……こんなもの」

 ウィリアムは持っていた本を放り出す。ゴミの散乱した砂地に絵本が落ちた。

 独りで頭を抱えたウィリアムは、夜の無音に沈んでいった。認められたい苦悩と認められなかった諦観が足を引っ張り、彼を周囲の景色から遠ざけていく。酒の回った頭に思考は動かず、底なし沼にズブズブはまる幻覚を見る。

 ウィリアムは目を閉じた。限界だ。失意の声を最後に眠りかけた彼の意識は、しかし砂を踏む音を聞く。閉じた目蓋が動くと同時、可憐な声に呼びかけられた。

「おじさん」

 ウィリアムは目を開け、おもてを上げた。目の前に、ボロ衣をツギハギにした服を着た少女が立っていた。

 見たところ、年齢は10歳前後。素足で、全身土や乾いた汚水やゴミで汚れ放題。ボサボサの金髪は全く手入れされてないのか、色がくすんでしまっている。顔立ちは愛らしいが、泥やこめかみに残る血のあと、目元のあざで台無しだ。浮浪者めいた出で立ちの少女は、浮浪者めいたウィリアムの顔を覗き込んだ。

「……何してるの?」

 宝玉じみた青い瞳に見据えられ、ウィリアムは顔を背けた。

「別に、何も」

「何もしてないの?」

「ああ」

「ふうん……?」

 少女が不思議そうに首を傾げる。ウィリアムは横目で少女を見返す。

 身なりから、彼女は自分と同じ底辺フェル。それも、親の事業失敗に巻き込まれた子供だろう。そう予測したウィリアムは、頬杖を突いて言った。

「君こそ、何をしてるんだ。こんなところで、こんな時間に。親御さんはどうした」

 少女は無表情にかぶりを振った。捨てられたのか、それとも死んだか。どうあれ置き去りにされたらしい少女は、背に回した手をウィリアムに差し出す。ウィリアムは目を見開いた。彼女が持っていたのは、先ほど捨てた自分の本だ。

「これ、おじさんの?」

 無垢むくに問われ、ウィリアムは目を泳がせる。本の表紙が寝そべる王からカードを並べる占い師に変わり、切り株に腰掛けたアウトローになり、灯台に立つ青年になり、玉座に座る老人になった。それらは彼が書いた絵本の記憶。ウィリアムは口ごもり、やがてつっかえがちに言葉を紡ぐ。

「捨てて、おいてくれないか」

「どうして?」

「私には、もう必要ないからだ……」

 項垂うなだれ、頭を抱えるウィリアムを前に、少女は拾った絵本を見下ろした。本を開き、ぱらぱらページをめくる音。絵本を流し見した少女は本を閉じ、言った。

「……いらないの? つまんないから?」

 直後、ウィリアムは跳ね起きた。胸倉をつかみ上げられた少女が苦しげな息をこぼし、宙吊りの爪先が足場を求めて虚しく揺れる。

 少女が驚愕と苦悶が混じった面持ちで見下ろす先には、憤怒に燃えるウィリアムの瞳。しかし、怒りの炎はたちまち消え失せ、胸倉をつかむ手が緩む。衣服が彼の指をすり抜けて落ち、少女はぺたんと座った姿勢で咳き込んだ。

 脱力したウィリアムは、糸の切れた人形めいてブランコに腰を落とす。少女の一言で爆発した激情と、それに伴う活力は霧散。彼はしなびた声で呟く。

「……帰ってくれ」

「…………」

 少女が複雑な表情を浮かべてウィリアムを見上げる。しかし、ウィリアムは彫像のように座して動かず、少女を見ようともしなかった。やがて少女は立ち上がり、ブランコ前から走り去る。

 ボロ衣の背中が曇天街の闇に消え、ウィリアムは夜に取り残された。

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