スターゲイザー
闇世ケルネ
第1話
著者より
この絵本を手に取った子供たちと、そのご両親へ。
今、この本を読み終えた君は、一体何を思うだろう?
夜空の
それとも、月のように輝く花と、空を旅する王子のことかな?
将来、どこかの星に辿り着いた自分のことを考えたのかも。
いずれにしても、私の想像より遥かに壮大で、輝かしい夢を見ているのだろう。私の本より豊かに、色鮮やかに描き出された物語が、君の中にあるのだと私は信じて疑っていない。
そんな君にお願いがある。どうか、君が見た夢を、言葉を尽くしてご両親に語って欲しい。そしてご両親の方々には、ご子息と共に、ご子息の語った夢に浸って頂きたいのです。
ベッドの中で、寝物語に語られたそれは、夜空に
明日の朝に目覚めるとしても。例え夢無きリアルが半日とせず訪れようとも。今、この時だけは、思い出して頂きたい。無邪気な空想に遊んだあの頃のことを。あなたの隣で夢見るだろう、あなた自身の星と一緒に。
――――『君と夜空を』ウィリアム・グラフ
●
二階建て石造り建築の建物が並ぶ街は、まるで死んだような静けさをはらむ。地面を包む薄汚い霧。人も入れぬ家と家の隙間では、肥えたドブネズミが群れを為して通りを
道を点々と照らすガス灯の列が、
ゴーン……ゴーン……。鈍い鐘が街に新たな時刻を告げる。しかし今は深夜の三時。娼館ですら明かりを落とす現在において、重苦しい低音を聞く者はいない。ただ一人、本屋に
大穴がいくつも開いたボロボロのコート。髪は自分で切ったのか荒れ放題で、頬はこけ、目は
「…………」
ウィリアムは無言で、本屋を閉ざすシャッターの足元、無造作に置かれたダンボール箱に目を落とす。
中身は全て本であり、大小ハードカバー文庫本ジャンルを問わず、紙クズめいて適当に突っ込まれている。雨風にさらされヨレヨレになった『全品無料』の張り紙が虚しい。これらは全て、駄作と言われた余り物。売れない不良在庫の山だ。
屈みこんだウィリアムは、箱を漁って一冊の本を引っ張り出した。横に長い絵本で、表紙は大きなベッドに横たわる太った王が赤子じみて泣き叫ぶ絵。タイトルには『
ウィリアムは溜め息を吐き、
「くそったれめ……」
毒づく声に力は無い。とぼとぼと夜の街を
人と金が密集する街、
(そして、私に運は無かった)
ウィリアムが街灯の下を抜け、夜闇に踏み込む。
ウィリアム・グラフ。職業は絵本作家。幼少期から本に親しみ、読書を愛し、ペンを
『本を書く!? 馬鹿なことを言わないで! それが一体いくらになるの!? 本なんて読んでないで勉強して! そしたらいい仕事について、いい人と結婚して、楽に生活できるんだから!』
子供を育てたからと言って、親に愛があるとは限らない。ウィリアムは母の愛が自分ではなく、将来裕福になる誰かに向いているのだと思った。有益な仕事も、生活の向上も、全てはウィリアムではなく母親自身の幸せのためだと。
結果、ウィリアムは家を離れて図書館に通い、幾多の本を
ウィリアムは暗がりの中、自分の本に目を落とす。
(私なりに趣向を凝らし、長い時間をかけてアイデアを練った)
(何度も推敲を繰り返し、これ以上ないと言える出来栄えに仕上げた)
(なのに、何故だ? どうして売れない? どうして誰も認めてくれない? 何故誰一人として賞賛しない? 一体どうして……)
自問自答を繰り返していたウィリアムは、気づけば無人の公園に居た。チェーンの錆びたブランコに腰掛け、両膝に腕を乗せて
筆を執って五年が経った。出した本は十冊を超えた。幾度の挑戦を経て、次こそはと題材探しから力を入れて、努力を重ねた。――――なんにもならなかった。
「……こんなもの」
ウィリアムは持っていた本を放り出す。ゴミの散乱した砂地に絵本が落ちた。
独りで頭を抱えたウィリアムは、夜の無音に沈んでいった。認められたい苦悩と認められなかった諦観が足を引っ張り、彼を周囲の景色から遠ざけていく。酒の回った頭に思考は動かず、底なし沼にズブズブはまる幻覚を見る。
ウィリアムは目を閉じた。限界だ。失意の声を最後に眠りかけた彼の意識は、しかし砂を踏む音を聞く。閉じた目蓋が動くと同時、可憐な声に呼びかけられた。
「おじさん」
ウィリアムは目を開け、
見たところ、年齢は10歳前後。素足で、全身土や乾いた汚水やゴミで汚れ放題。ボサボサの金髪は全く手入れされてないのか、色がくすんでしまっている。顔立ちは愛らしいが、泥やこめかみに残る血の
「……何してるの?」
宝玉じみた青い瞳に見据えられ、ウィリアムは顔を背けた。
「別に、何も」
「何もしてないの?」
「ああ」
「ふうん……?」
少女が不思議そうに首を傾げる。ウィリアムは横目で少女を見返す。
身なりから、彼女は自分と同じ
「君こそ、何をしてるんだ。こんなところで、こんな時間に。親御さんはどうした」
少女は無表情に
「これ、おじさんの?」
「捨てて、おいてくれないか」
「どうして?」
「私には、もう必要ないからだ……」
「……いらないの? つまんないから?」
直後、ウィリアムは跳ね起きた。胸倉をつかみ上げられた少女が苦しげな息をこぼし、宙吊りの爪先が足場を求めて虚しく揺れる。
少女が驚愕と苦悶が混じった面持ちで見下ろす先には、憤怒に燃えるウィリアムの瞳。しかし、怒りの炎はたちまち消え失せ、胸倉をつかむ手が緩む。衣服が彼の指をすり抜けて落ち、少女はぺたんと座った姿勢で咳き込んだ。
脱力したウィリアムは、糸の切れた人形めいてブランコに腰を落とす。少女の一言で爆発した激情と、それに伴う活力は霧散。彼はしなびた声で呟く。
「……帰ってくれ」
「…………」
少女が複雑な表情を浮かべてウィリアムを見上げる。しかし、ウィリアムは彫像のように座して動かず、少女を見ようともしなかった。やがて少女は立ち上がり、ブランコ前から走り去る。
ボロ衣の背中が曇天街の闇に消え、ウィリアムは夜に取り残された。
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