第2話 山道。
時は十九世紀半ば。葵御紋が未だ世の醍醐味を啜る時。
光あれば影あり。今宵も何処かで魑魅魍魎が闇に隠れて血肉を喰らい続けていた。
時は壱捌伍伍年――晴れ。
旅人向けに山道で構えた小さな団子屋、その屋外の一席にて団子を喰らう男が一人。名を天地(あまち)と言った。
天地は旅人だ。そして今は旅仲間が用事から戻ってくるのを待っていた。
だっ、だっ。遠くの方から複数の人が走る音。下駄に草履に、裸足の者まで居た。天地は耳が良い。足音でその者の大よそが解った。
だっ、だっ。向こうから音が近づく。音は天地の座るテーブルの左側の山道から聞こえた。
(女が一人……それを追う男が三人、といったところか)
串に刺さった草団子を食らいながらも、まるで風景のようにそれを聞き流していた。天地は世捨て人だ。彼の雲水僧姿はただの格好だけである。天地は面倒事を嫌う。とにかく自分に災が降りかからぬよう安寧に日々を過ごしたい。だから持ち前の耳の良さで、大よそが掴めても靄のように気配を消そうとする。
天地の予想通り、向こうから女が走ってきた。桃色の着物を着た女は、なんとまだ二十歳にも満たぬほどのおぼこな少女ではあった。その後を、金髪のリイゼント、流行りの赤と黄の花模様が入った派手な着物、そして
(……女衒か? あーやだやだ。どうかこっちに来ないでくれよ)
外道極道紛いなど、触らぬ神に祟りなし。見るからに金の無さそうな少女。助けても見返りなど期待できない。
瞬間、天地と少女の目が合った。それがどうも少女が助けの藁と受け取ったようで、逃走経路を変えて天地のもとへと一目散に走り寄ってきた。
「助けてください!」雀のような愛らしい声で少女は、天地の足に縋りつく。「あぁっ!?」まさか来るとは思ってもいなかった天地が口に含んでいた団子を吐き出した。
「てめっ! ふざけんなよ!」何とか足から引きはがそうと必死に天地は少女を動かす。だが、少女はまるでヒルだ。少女は天地の全力にも耐えていた。
そうこうしていると直ぐに少女を追ってきたチンピラ達が、天地のテーブルを取り囲む。そして威圧するために、あえて喉を傷めそうな低い声で怒鳴り散らした。
「えぇ!? ようやっと諦めたかよ、えぇ!?」「何処まで逃げんだよ、おぉ!?」「舐めくさりやがって、この腐れアマが、クソ!」
耳を塞ぎたくなる罵声だ。天地の気分は損なわれた。だが助ける気分ではない。願わくばさっさとこの少女を連れてどこかへ行ってしまってくれ。
「う、五月蠅い! 嘘つきやがって! も、ももももう少しで遊郭だったじゃないか!」活きが良い啖呵だ。彼らにも引けを取らない。
「ぎゃははは!! てめぇみてぇなロリコン向けなんざ、遊女として売るかよ! 精々夜鷹がいいとこだぜ!」
だが、少女も負けはしない。一番体格の良い鼻
チンピラ達の時間が静止した。指さされた男は怒りで眉を震わせ、後ろの二人はあわあわと狼狽え震えていた。「あ、兄貴の……」「あ、兄貴が……」なんとも見っとも無い。先ほどの剣幕が嘘のようだ。
「こンの、クソアマ! ぶっ殺して、クソ溜めにぶち込んでやる!」怒りで真っ赤に頭を茹らせる様はまさしく……。
「怒ったって、怖くないからね! タコ頭!」
それがチンピラの臨界点だった。
「こ……」もはや言葉にならない憤怒を表し、腰に差していた刀を抜いた。これは本気だ、止まることはない。それは天地にも少女にも理解できた。
一人を筆頭に、二人も刀を抜く。
流石に刃物には勝てないと悟ったのか、少女は一瞬「ヒッ」と小さく悲鳴を上げる。しかし、この少女、かなり強い。すぐに胆に力を込めて、キッと刃先を睨みつける。
「あ、アンタたちなんかね! こ、このお侍様が退治してくれるよ!」
少女が指さしたのは天地であった。
あまりの突然な出来事に、天地は一度少女の指先から頭を下げてみたが、少女はそれに沿ってまた天地を指す。やはり自身かと理解すると、カッと疑問と怒りで立ち上がった。
「なして俺だ!」
「だ、だって、刀! 持ってるじゃない!」
「俺は侍じゃねえ!」
「じゃあ……お坊さん?」
「これは伊達酔狂よ。それにな、文無しを助ける義理はねえ」
言い切るとどさりと席に座りなおす。
するとどうだ。
少女は天地の足元で目を潤わせ泣き脅しを仕掛けるが、天地には無効だ。
フンとそっぽを向いて、少女をちょいちょいと軽く蹴飛ばした。そして何食わぬ顔でまた団子を食らいだす。
「ほら、そこの蛸助。どういう訳かは知らねえが、何もぶっ殺すことはねえだろ。さっさと連れてきな。目障りで仕方がねえよ」
おっと、しまった。
蛸助。よりにもよって男の気を逆撫でる言葉を選んでしまった。
ふと目線を草団子から目前の男に向けてみると、やはり鼻装身具の男の顔は真っ赤に茹り上がっていた。
抜かれた刀の刃先は今は天地の顔先に向けられていた。そして何かを思いついたのか、ヘヘヘと笑いだした。
「坊さんヨォ、アンタ、この女のバイショーキンを払ってくれねえか? この女、俺の腕を折ったんだぜ?」
「バァカ! 自分からぶつかってきといて何さ! だいたいその腕で刀持ってるじゃないかさ!」
大した恐喝だ。能無しの筋書き一遍では言いくるめなど無理だろう。だが、やはり暴力武力は言葉など握りつぶせる。
「バァーーーーーーーーーーーーカ!!」男が刃先を少女に向けると、少女は口を閉ざす。
「……で、だ。それがどうして俺が払う道理になるんだ?」
「坊さんだろォ。人助けってやつよ。俺達の財布を助けてくれヨォ~~~」
金蔓にされた。天地は
天地は面倒事が嫌いだ。
「金か……ホラ、持ってけよ」
小袖から銭入れを取り出すと、テーブルに放り投げた。中々蓄えているのか、どちゃりと重たい金音がする。
それを鼻装身具の男は嬉しそうに受け取るが、刀をしまおうとはしない。
「ついでによ。その横の、刀も貰っちまおうか。そっちのバッチィのは……金にならねえが、その朱塗り鞘は中々じゃねえかよ」
鼻装身具の男が指した天地の刀は、一般的な肥後拵とは大きく違い、派手な朱塗りに見事な彫り物に装飾品が散りばめられていた。その横にある無骨で古びた石鞘などは値も付けられないだろうが、確かにこの傑作品ならばかなりの高値が付くだろう。小狡い男たちだ。強欲だ。
「……悪いが、これはやれねえな」
「そう言うなヨォ。坊さんには不要だろぉ?」
男が脅迫する。天地の頬に、刀の鋭さ、切れ味を知らしめてやるとツッと血が滴る。
だが天地は臆しなんだ。逆に黒漆のような深い目で男を睨み返した。
「オメェらみてぇな輩が居るからなぁ。護衛用よ。……小僧どもがよ、欲深いのは身を亡ぼすぞ。おすすめしねえな」
小僧? 身を亡ぼす? この童は何を言っているんだ。男たちがゲラゲラと笑う。
「なぁ……墓碌」
天地が人の名を呼んだ。
「ああ、その通りだぜ。お師さん」
寺鐘の如く重たい声に驚いた男たちが振り向くと、そこには背丈七尺ばかしの偉丈夫が仁王立ちしている。毛筆で「妖怪滅殺」「悪人成敗」と書かれた継ぎはぎだらけの山伏姿の男は、顎下を覆う針金みたいな剛髭に凹凸激しい岩壁のような顔だ。まさに鬼面をつけた剛力男。
男たちの顔ほどはある大きな拳を組むとゴキリゴキリと、岩を削るような指の音をかき鳴らした。
これには勝てない。
男たちの本能がみるみる青ざめていく。刀など爪楊枝。あの鋼みたいな腕では玉鋼など豆腐だろう。
先ほどまでの笑いを演技だと言い振るように、ゆっくりと天地のテーブルから離れていく。「へへへ、いやね、へへへ」「いやぁ、いやぁ、いやぁ」口からは誤魔化しになっていない言葉が漏れ出ている。
「財布」
墓碌の言葉に、鼻装身具の男が慌てて戻って、天地の座るテーブルにそおっと財布を置くと、先に逃げていった仲間へと走っていった。
「ったく……。なんともまあ。みっともねえぜ」
墓碌が腕を組んで溜息を吐いた。
天地が財布を小袖にしまいつつ「全くだよ。最近の若い奴は」と愚痴ると、「アンタの事だぜ、お師さん。あんな輩にどやされるなんて……。俺ぁ、泣けてくらぁ」
墓碌がヨヨヨと泣き真似をした。
「五月蠅いよ。それよりちゃんと金は貰ってきたろうな」
天地の問いに、墓碌が手で丸を作る。
「ばっちぐぅ」
「ぅ良し! そうと分かればモーマンタイ。町に行って宿でも取るかあ。美味い酒に美味い飯。そうさなあ、鍋でも食うか。猪。うん、ぼたん。――その前に」
最後の草団子。さてと手を皿に伸ばすと、「無い⁉ ……無い、無い無い!」皿の何処にも草団子の影形も無かった。皿の下にも、ケツの下にも、机の下にも、どこを探しても無い。
「なんだよ、お師さん。団子の一つや二つ」墓碌が呆れて物が言えねえと項垂れる。
「気分がいい時に飯を食う。それが人生往生の策よ。団子を喰って、小さな一問答も一件落着。団子も悪心も飲み込むってやつよ」
「阿呆らしい」
「そーそー。アホらしいアホらしい」
思わぬところからの援護に墓碌が驚きの声をあげる。「はあ?」
天地墓碌二人が見やったのは隣のテーブルだった。そこでは何食わぬ顔で天地の草団子を食べる先の少女が居た。
天地が何か言おうとする前に、少女は最後の一口をすぐさま味わい「んー、美味し」と見せびらかした。
「テメェ!」思わず天地が襲い掛かろうとしたのを墓碌が羽交い絞めにして制止する。「待った! 待った! お師さん! お師さん!」
「ムジョームジョー。団子の一つ。この世あればいつでもどこでも。小さなことで怒っちゃダメダメ」
奪っておいて大した言い分だ。
早い所、町に向かいたい墓碌が少女に便乗して、何とかして諦めさせようとする。
「そうだぜ、お師さん。地面に落ちたと思えばいいじゃねえかよ」
「俺は! あの団子ならば、泥に塗れても食っている!」
驚きの発言に二人が舌を出して嫌悪する。
「ウゲェ」「ばっちぃ!」
同時に突かれては流石に天地も応えた。
「っぐ……ぐぐぐぐう。分かった、分かった! ネズミに食われたということにする! どうせ無いんだ。どうしようもねぇ!」天地は項垂れた。
「やりぃ!」
少女が指を鳴らして飛び跳ねた。「儲け儲け」とキシシと笑っている。どうやらこの少女かなりずる賢い。本当は先ほどの件、悪人はこの子ではなかったのだろうかとすら思えてきた。
天地はこのままでは本当に拳を止められないと自覚したのか、少女を惜しみ目で睨みながらも早々と荷物をまとめる。
恨めしく睨み続ける天地を、墓碌が力いっぱい天地を引きずる。
「さぁ行こうぜ。お師さん」
「またねー、お坊さ~~ん」
少女が手を振るのを、天地は地獄絵図を見続ける気分でいた。
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