アヤカシ・ジャーニー
吹き矢
第1話 酒場のカーニバル
甘味の強い花香が満ちる酒場。夜刻、店の鳩時計の短針は八の字を指していた。
まだ夜更け前というのに、場内はがらりと人の姿はない。……たった一人の男を除いて。
泥汚れて分かりにくいが、確かに藍色の襤褸直綴、一月は風呂も入っていないであろう黒い髪は乱れ、鳥の巣みたいだ。彼の席の横には網代笠が立てかけられている。男は雲水僧であった。
雲水僧の男はカウンター席で、ギヤマングラスに注がれた焼酎を何度も呷った。喉が灼ける心地よい感触を楽しんでいると、カウンター越しにグラスを拭う老いぼれた店主が声をかけてくる。
「客さんよ、ホントにお偉い坊さんなのかい? あっしにはどうもそうには見えやせんが」店主は疑心の目で雲水僧の男を睨んでいた。昨今、この国では強盗が流行っていた。酷い時には店内皆殺しなんてことも……。店主はそれを恐れているようだった。
ぶぅんと己の顔元を飛び回る蠅を手で払うこの男には、僧侶の持つ独特の異様さはあったが、酒を飲んでいるし、剃髪もしていない。だが破戒僧とは思えない堕落さはない。しかし男が自称する「偉い方」とは到底思えぬほど、男は若かった。
齢にして二十歳を過ぎたばかり、顔つきにはまだ乳臭さが残っている。若坊主と言うならば店主も納得しただろう。
「ハハハ、親父ィ。さっきから言ってるだろう、俺はお偉いが! ……坊主ではない。神も仏も糞食らえよ」男は酒に酔っているのか、上機嫌に笑った。
空になったグラスにお替りを注ぎつつ「へぇ。そうなんですかい? では、お侍さんで?」と店主は、行李と共に男の席の横に立てかけられた二本の大刀を指した。
その刀は、一本は石鞘の古刀、もう一本は巷では珍しい朱塗り拵の立派な刀だった。武士ですら持たないであろう業物に、店主は興味が尽きない。
だが男は首を横に振った。
「いんにゃぁ。侍っつうもんは嫌いでね。無知なくせに傲慢ちき、ラリったジャンキーしかいやしねえ……鼻につく」そう言うと注がれた焼酎をグイっと一気に飲み干す。
この男、やけに世情を知り得たような口ぶりで話すものだ。それが余計に店主の好奇心と疑心を誘った。帯刀し、雲水まで着て、僧でもなければ、侍でもない。混沌《カオス》めいた風体に店主の脳が混乱する。
店主はグラスを拭うのをやめ、カウンターに両手を乗せた。
「じゃあ、客さんはそいつで何をお斬りになさるんで?」
推理する店主の顔が険しい。身を乗り出し、男に顔を近づけて、その面をまじまじと拝む。
男が空いたグラスに酒を頼む。「ハハ、親父ぃ。随分と強いコロンじゃねえの。鼻が曲がりそうだ。……いやぁ、何。俺が斬るのは妖怪よ」酒は注がれない。
妖怪。店主はそれを聞いて、腹を抱え大声で笑った。
「客さんよ、鎌倉ならばいざ知らず。今は大江戸徳川が治めるときですよ。そんな子供騙しな……」店主が荒唐無稽と笑い捨てるが、男はそれを諭すように言葉を挟んだ。「いや、親父。これがそうでもない。
「へぇ。おかしな世の中でござらぁ。まったく。ハハハッ」
「――まぁな。だが、意外と儲かるんだぜ」
「へぇ。これまでどんなのを?」
「怪を十数、鬼を数百、霊は……いくつだったかな。覚えちゃいねえや」
男はグラスを顔に近づけ、カラリコロリとグラスを回しては中の氷が揺れる様を楽しんだ。
「はっはっは! 面白い、こいつは面白いよ。そこまでおっしゃるなら是非一人ほどお話いただければ」店主はまだ信じてはいなかった。きっと男の出来た作り話だと笑っていた。
「じゃあ、一匹――
「……人を、喰うのですかい」
「そりゃぁもう、バリバリとよ。皮肉はおろか骨まで喰っちまう。そのくせ、喰い方は下品ときたもんだ! 犬のがまだマシだね、あれは。だから奴らが喰った後はえげつねえのよ。見られたもんじゃねえ。」
「そいつぁ恐ろしい。……もうお辞めになさってくだせえ。恐ろしい話を聞いた日には、おおぉう。水も喉を通らないんですよ」店主の顔は青ざめていた。よほど恐ろしいのだろう。ぶるぶると身を震わしていた。
そんな店主を肴に、男は酒のないグラスから氷を取り出し、ぐるぐると氷でテーブルをなぞっては「へへへ」と笑った。
「しかし、それでずばりと……?」店主が再び男の刀を指した。
「ん? んー、まぁな」
「ぜひ、その義刀を拝ませていただければ」
「……。悪いが、この刀は斬る時にしか抜けんよ」男は石鞘の刀を持ち上げ、店主に見せた。男が抜く素振りを見せても、確かに白刃が見えることはない。
「じゃあ……」店主の指が朱塗り拵を向いた。「いや、これは護身用でな。別に妖を斬るほどの業物ではないよ。悪いね。――しかしよ、親父。今日はやけに蠅が多いな」男が頭上のランプを見上げる。数匹の蠅が光の回りをぐるぐると飛んでいた。
男の失礼な言葉にも、店主は怒ることなく「そうですかい?」と答えた。
「……。それによ。まだ酒宴があってもいい頃合じゃないか? やけに、シケてるなあ。昼間はよく照ってたのによ」
男の言葉はあまりにも礼に欠いていた。さすがの店主も呆れて言葉も出ないのか、くるりと背にある酒棚の方を向いて、男に背を見せた。
暫くの沈黙、無言のままだった店主が口を開いた。
「いやいや、客さん。今日はね、これからパーティーなんですよ。孫娘がね、誕生日でして」
「へぇ、そいつはめでたい! それは……俺が居ては邪魔だろう」男が刀を取ろうとしたが、店主は大声で笑う。
「いえいえ、そんな。ぜひ客さんには居てもらわないと。いやね、他の客さんにもサプライズを手伝ってもらってるんですよ」
男が眺めるグラスの中で、カランと溶けた氷が音を成す。すると店主が突然、訊ねてきた。
「それで……さきの、ぐぅるとやらは何人、斬ったんです?」
「ん? ……ああ、二匹ほどだな」
「二人、ですか……」
店主の様子がおかしい。男の言葉がよほど滑稽なのか、体を屈ませてまで腹を堪えている。
すると先ほどの店主の言葉通り、男の後ろでスイングドアが開く音がする。ぎぃ、ぎぃ。音はひっきりなしだ。かなりの数の足音が聞こえる。
「客さんよ、きっとそいつぁグールじゃぁありませんよ。犬かなにかでしょう」
「よく知ってる口ぶりじゃないか、親父」
その時、男は店主の言葉に耳は貸していたが、意識はランプの光に照らされたグラスに夢中だった。グラスのギヤマンが、男の背後を映し出す。
男の背後に映るのは――店主の家族だろう。だが入店してきた足音の主達は人ではなかった。
腐った肉を覆う青ざめた肌。目に瞳孔はなく、あの真っ赤な血が滴る口からはどぶ沼の臭いがするのだろう。痩せた指先から伸びる鋭い爪を擦り、きちりきちりと音を立てている。
食屍鬼のご一行だ。随分の大所帯、先の親戚まで呼んだのだろうか。思わず感心した男が「成程。たしかに、パーティーだな……」と呟いた
「なぜならグールは家族で行動するからねぇ!」
そう叫んで振り返った店主は、先ほどの血色の良い顔色とは打って変わって、男の背後にいる食屍鬼と全く同じ姿になっていた。
「
店主グールが笑いあげると、家族皆も併せて笑った。
だが男は悲鳴を上げるどころか、僅かな震えも起きちゃいなかった。そればかりか、クククと不敵な笑みを浮かべているのだ。
「何が可笑しい!」店主グールが叫びたてる。
「一人頭八両。それがお前らの値段さ。やっすいねえ。数十人も人を喰ったと言うのに。だが、助かる……。こう暑い日々、いくら藩主の依頼だろうと止めようかと思っていたころだ」
「ならば貴様も喰らうて、藩主も喰らうて、値でも上げようか!」
ぽうぽう。鳩時計が窓から飛び出たのを合図に、店主グールが鋭い爪と、肉食獣のように尖った牙を剥きだして、男に飛びかかった。彼を筆頭に、背後の食屍鬼たちも一斉に襲い掛かった。
「勝てる術が無ければ、此処には居やせんよ」
次の瞬間、テーブルが発光した。男がテーブルに氷でなぞって作った五芒星が黄金色の強烈な光を放ったのだ。それは光でもあり、雷の針でもあった。
閃光が食屍鬼たちの目を潰す。そして、直後に光から突き伸びる雷が前線に居た食屍鬼たちの腐った肉体に突き刺さる。
感電した食屍鬼たちの悲鳴。「ギャア!」「グゲ!」「ゲギャア!」腐った肉が焼け焦げる。店主グールが悲鳴とともに、散った家族の名を叫ぶ。「ジョン! マリア!」
一コンマにもならない瞬間。辺りに倒れるのは食屍鬼たちの黒焦げた死体。辺りにはその肉が焼ける汚臭が立ち込めた。
「な、なんで……! 道楽なんだろう! 違うのかよ! ええ!? 二人だけなんだろう! だったら私たちが負けるはずないのに!」店主グールが雷に焼かれ失った左腕を探しつつ、男へと憤怒を露わにした。
「斬って殺したのは二匹だよ。頭が間抜けか? 数百ほど鬼は殺したって教えてやったろう」
「グギギギ。だが、だが! まだ私たちはたくさんいるんだぞ!」
店主グールが叫ぶと、店の奥から更なる食屍鬼。その数、十五!
だが男は怯まない。軽く口笛を吹き、「スコア更新だな」と胸を張った。
「――さあて、と」男が石鞘の刀を手に取る。
「見たかったろう……?」
「くそぅくそぅくそぅ!!」
斬ッ。 憎しみを吐き出す店主グールの頭をぶった切る。
ごろりと床に頭が転がる。首から黒泥の血がぬめり出る。
「葬、あれかし」
店主グールは将軍だったのか、抑えをなくした食屍鬼が一斉に男に襲い掛かる。
斬! 斬!! 斬!!! 斬!!!!
男が雄叫び混じりの大笑いをあげて、店ごと食屍鬼たちを斬っていく。
グラスが砕け散る。割れた酒瓶が宙を舞う。斬り飛ばされた食屍鬼の頭や腕、至る部位が店のあちらこちらに飛んでいく。まるで舞踏会だ!
「さぁ、パーティーだ!」
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