8 ご飯をおいしいと感じられるうちはまだ、大丈夫だ


 あたたかな卵粥が喉を通り、胃のへ落ちていく。


 心と身体、両方の強張こわばりをほぐすかのような優しい温度に、香淑はほう、と息を吐き出した。


 たっぷりの卵と、刻んだねぎが入った粥は、じんわりと身体に染み入るようなおいしさだ。


 朝食をちゃんと味わえている自分に、香淑は安堵する。


 ご飯をおいしいと感じられるうちはまだ、大丈夫だ。


 材料も調理方法も贅沢ぜいたくなものなのに、砂を噛むように何の味もしなかった食事を、身体が食べ物を受けつけなかったつらさを、香淑は知っている。


 それに比べたら。


(だんな様と呼ぶべき方や、侍女達にうとまれるくらい、なんのことはないわ……)


 もともと、ある程度の覚悟はしていたのだ。

 三人もの夫を次々と亡くした香淑を娶るなど、何か事情があるに違いないと。


 一人目は三年。

 二人目は一ケ月。

 三人目は、たった一晩――。


 嫁ぐたび、夫が変死し、薄気味悪いと叩き出されるように実家に戻された香淑は、いつの間にかちまたで、『夫君ふくん殺しの女狐』と不気味そうに囁かされる存在になっていた。


 侍女達は香淑に気を遣って、決して噂を口にしはしなかったが、両親が娘を『夫君殺しの女狐』よと、「嘉家の厄介者」よとさげすむのだ。どうして無知でいられるだろう。


 二十歳すぎで三人目の夫に死に別れ、香淑が実家に戻った頃から、あれほど栄えていた嘉家が急速に没落し始めたのも、娘をうとむ両親の心に拍車をかけた。


 噂が流れても態度を変えなかったのは、長年、香淑に仕え続けてくれていた数人の侍女達と、年の離れた弟だけだ。


 実家にいた頃の香淑は、このまま自分は両親に蔑まれながら、屋敷の奥深くに軟禁同然に押し込められて年を経ていくのだろうと、諦めの境地に立っていた。


 ――四度目の縁談が降ってわいて出るまでは。


 高額な結納金に、金策に困っていた両親は、一も二もなく、結婚を了承した。


 嘉家の家格の高さは、遠方からも求婚者を呼び寄せるのだと、浮かれに浮かれて。


 だが、香淑は両親のように楽観的に喜べなかった。嘉家よりも家格の高い家など、他にもある。


 ましてや、三十三歳にもなる大年増を金で求めるなど……。

 表沙汰にできぬ事情があると言っているも同然だ。


 結婚相手の榮晋が十歳も年下の青年だと知った時、香淑はきっと榮晋には好きな娘がいるのだろうと推測した。

 もしかしたら、幼子おさなごも生まれているのかもしれないと。


 それならば、子を産めるかわからぬ三十三歳の大年増を嫁に迎えるのも納得できる。


 正妻に子どもが生まれなければ、愛妾の子を後継ぎにするのもたやすいだろう。


 香淑の両親の性格を考えると、丹家の援助さえ受けられれば、香淑が嫁ぎ先でどんな目に遭ったとしても、気にすまい。


 そうした推測を重ねた上で、香淑は自分なりに覚悟を固めて、丹家へ嫁いできたのだ。


 榮晋の愛妾に好かれることは無理だろうが、せめて憎まれぬように控えめでいよう。理由はどうであれ、あの息苦しい実家から連れ出してくれた榮晋に、誠心誠意仕えよう。


 そして……今度こそ、添い遂げられますように、と。


 さすがに、榮晋に殺してほしいと願われるなんて、想像の埒外らちがいすぎたが。


 だが、榮晋の目は、真剣この上なかった。

 本気で、香淑に榮晋を殺してほしいと願っていた。


 けれど……。


 粥を食べ終えた香淑は、さじを置いて吐息する。


 榮晋が何を望んでいるのか本当のところはわからないが、香淑に榮晋の願いを叶えることは、不可能だ。


 ちまたで『夫君殺しの女狐』と噂されてはいても、本当の香淑は、何の力もない一人の女にすぎないのだから。


 というか、榮晋は噂が真実だと信じているのだろうか。

 昨夜見た榮晋は、妄想に浸るような夢想家には見えなかったのだが。


 すがりつく子どものような榮晋のまなざしを思い出すと、胸がつきんと痛み出す。


 榮晋は、香淑の大切な弟と、さほど年が変わらぬ若さだ。


 本来ならば、快活で生気にあふれている年頃であるはずなのに、榮晋が纏うのは、どこか老成した諦めだ。


 榮晋には、丹家には、何が隠されているのだろう?


 窓からは初夏の明るい陽射しが降りそそいでいるというのに、まるで、深い森の中に迷い込んでしまったかのようだ。


 深く吐息した拍子に、嗅覚がたゆたう香りをとらえる。

 枕の陰に隠した、梔子の花だ。


(勝手に部屋を出たら、呂萩に叱られるかしら……?)


 ためらいは、だが、丹家の庭にも梔子の花が咲いているのか探したいという欲求の前に、あえなく崩れ去る。


 丹家の庭に梔子が咲いていたからといって、贈り主が榮晋とは限らない。


 けれど、このまま、部屋の中に一人閉じこもっている気にもなれなくて。


(もし、見咎められたら、丹家の祖先の霊前に、朝の挨拶をしにきたのだと言おう……)


 意を決すると、香淑はそっと部屋の扉を押し開いた。



  ◇ ◇ ◇



 結果から言うと。


 昨夜、婚礼を挙げた堂までの廊下で、香淑は使用人の誰にも出くわさなかった。


 丹家ほどの規模の広い屋敷なら、数十人、場合によっては百人を超えるほどの使用人達を抱えているはずだが、屋敷の中は、驚くほど人気ひとけがなかった。


 まるで、手入れだけは欠かされていない廃墟だ。


 うろ覚えの廊下を進み、なんとか昨夜の堂の前まで辿り着いたが、堂の扉はぴったりと閉められ、鍵までかけられていた。


 仕方なく、堂の前のきざはしで香淑は丹家の先祖に丁寧に手を合わせる。


 婚家の祖霊を敬うのは、嫁の義務の一つだ。

 己が丹家の嫁として扱われていない自覚はあるが、だからといって、嫁としての義務をないがしろにしていいとは思わない。


 むしろ、非を指摘されぬようにふるまうべきだろう。

 いわれなき責めを、受けぬためにも。


 いくら貞節を尽くしても、それが無駄になることがあると、知っていても。


 しばらくの間、手を合わせて頭を下げていた香淑は、祈り終えると顔を上げ、堂の周りを見回した。


 昨日、闇の中で見た時は、恐ろしさを感じたほどだったが、朝の明るい陽射しの中で見る堂は、丹家の長い歴史を感じさせる古式ゆかしき佇まいだ。


 昨夜、身体の奥底から震えだすほどの恐怖を感じた場所と同じだとは、とても思えない。


 きっと、緊張のあまり神経質になってしまい、多大に恐怖を感じてしまっただけだろう。


(さあ、梔子の木を探そう)


 そう思うだけで、心が浮き立ちそうになる己に、香淑は苦笑する。


 これでは、すがるものを探しているのは榮晋ではなく、自分だ。


 今日はよく晴れてよい天気だ。初夏の心地よい風が衣の袖や、庭木の葉を揺らして過ぎてゆく。生気のない建物とは裏腹に、庭の木々は陽光を照り返し、まもなく来る夏を待ちわびるように輝いている。


 こんな日に一人で部屋に閉じこもっているのはもったいない。


 とりあえず、人目につかぬうちに、自室のそばまで戻ろうと、香淑は来た道を辿る。


 ある程度の規模を持つ貴族の邸宅なら、妻や娘が暮らす棟は奥まったところにあるのが普通だが、それにしても、香淑の部屋がある棟は、かなり奥に位置しているようだ。


 榮晋のそば近くにはべっているであろう愛妾と、顔を合わせないようにという配慮だろうか。

 誰に対する配慮なのかはわからないが。


 棟と棟をつなぐ渡り廊下まで来たところで。


 がさりと庭木の一か所が大きく揺れた音に、香淑は足を止めた。


「誰か、いるの?」


 音の出所を探して首を巡らせた先で見つけたのは。


 茂った葉の間から覗く薄青色の着物と。


 こちらを見上げ、驚いた顔をしている七歳ほどの少年だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る