7 それは、あるはずのない花
窓から差し込む初夏の朝日の明るさに、香淑はゆっくりとまぶたを開けた。
見慣れぬ寝台に、薄物の夜着を
一人で寝るには大きい寝台に横たわっているのは、香淑だけだ。寝台の残り半分は、夜具が乱れた形跡すら、ない。
やはり、榮晋は昨夜出て行ったまま、戻ってこなかったらしい。
榮晋が荒々しく扉を閉めて出て行った後、呆然としたまま、香淑は榮晋の戻りを待っていたのだが。
眠気にたえられず、いつの間にか寝入ってしまったらしい。
昨日はあれこれと緊張しすぎたせいで、気力体力ともに使い果たしていたせいもあるだろう。
香淑は、昨夜、榮晋が出ていく寸前に吐き捨てた言葉を思い返す。
榮晋は、香淑が『夫君殺しの女狐』と呼ばれていると知った上で娶ったのだと、明言していた。そして。
(わたくしに己を殺させるために娶った、なんて――)
脳裏にこびりついた凄惨な光景が甦りそうになり、香淑はぎゅっ、と固く目をつむる。
身体が震えだしそうになった瞬間。
ふと、
あわてて寝台から降り立ち、
卓の上に、ぽつんと一輪だけ置かれた、
信じられない思いで、卓に駆け寄る。足にぶつかった椅子が大きな音を立てたが、耳に入らない。
卓の前で立ち止まり、香淑は胸の前で両手を握りしめて、梔子の花を見つめる。
小枝ごと折られ、卓の上に無造作に置かれた梔子の花は、何か特に際立っているわけではない。けれど。
おずおずと、香淑は緊張に震える指先を花に伸ばす。
ふれれば幻のように消えてしまう。そんな気がして。
指先が、絹のようになめらかな花びらにふれた途端。
香淑は、思わず唇を噛みしめた。
でなければ、喜びのあまり、声を上げてしまいそうで。
離せば消えてしまう気がして、両手でぎゅっと枝を握る。厚い葉が肌をこすったが、かすかな痛みさえ、幻ではない証拠に感じられて嬉しくなる。
宝物のように、両手で梔子の花を大切に押し包む。
香淑の自室の卓に、花が置かれるようになったのは、一人目の夫が死んで、実家に戻ってきた頃からだ。
文も何もない。ただ、手折られた花が、一輪だけ。
けれども、花が置かれる朝は、決まって前の日に、つらい思いや苦い感情を味わった日ばかりで。
二度目の結婚の間も、実家に戻ってからも、ことあるごとに、そっと無言で贈られる花に、香淑はどれほど慰められたことだろう。
弟以外にも、たった一人でも香淑のことを気にかけてくれている者がいるのだと、確かに感じられて。
けれど。
「どう、して……?」
花を抱きしめたまま、香淑は答える者のいない問いを紡ぐ。
贈り主は、おそらく香淑付きの侍女の一人なのだろうと、今までずっと、思い込んできた。
屋敷の奥深くに位置する香淑の私室まで入ってこられる者は限られている。
それに、長く香淑に仕えてくれている侍女達か、年の離れた弟くらいしか、香淑を気遣ってくれる者に心当たりがない。
だが。
今回の嫁入りに、香淑は実家から一人の侍女も連れてきていない。
必要なものはすべて丹家で用意するからと、嘉家からは一人の侍女の同行も認められなかったのだ。
だというのに。
(いったい、誰がこの花を……?)
包むように両手で持った花を見つめ、思案する。
昨夜、到着したばかりの丹家で、香淑に花を贈ってくれる者など、いるはずがないというのに。
真っ先に思い浮かんだのは、呂萩のしかつめらしい顔だ。嘉家まで香淑を迎えに来てくれた呂萩とは、たった十日ほどとはいえ、丹家の中では最もつきあいが長い。
が、仕事はそつなくこなすものの、必要最低限のこと以外、決して香淑と言葉を交わそうとしない呂萩が、香淑に花を贈ってくれるとは、とても考えられない。
とすると、香淑に思い当たる人物は、たった一人だけだが……。
そんなはずはない、と、香淑は舞い上がりそうになった己の心を叱咤する。
もしかして、榮晋が昨夜の詫びに贈ってくれたかもしれない、などと。
手元の花が揺れた拍子に、芳しい香りがふわりと
確証もないのに舞い上がってはいけないと、理性が戒める一方で、榮晋だったらいいのにと、願う気持ちが止められない。
脳裏に思い浮かぶのは、
家路を探す迷い子のような、どこか泣き出しそうな表情が、胸の奥底に
なぜだろうかと、香淑が己の心に問うより早く。
「起きてらっしゃいますか?」
廊下からかけられた呂萩の声に、はっと我に返る。
「え、ええ……」
答えながら、手に持っていた花を、とっさに寝台の枕の陰に隠す。
自分でもわからないが、なぜだか呂萩に花を見咎められたくなかった。
「失礼いたします」
呂萩が盆を片手に一礼して入ってくる。
「朝食をお持ちしました。先にお着替えをなさいますか?」
盆を卓に置いた呂萩が淡々と問う。
「ええ。お願い……」
頷きながら、香淑は盆の上に視線を走らせる。
盆の上に載っているのは、湯気を立てる
慣例ならば、婚礼の翌朝の朝食は、夫婦で祝い餅を食べるものだが……。
婚儀は執り行ったものの、逆立ちしても「夫婦」とは呼べない榮晋と香淑で祝い餅を食べるなど、茶番この上ない。
呂萩が祝い餅を持ってこなかったということは、呂萩も昨夜の
部屋の片隅に置かれていた長持から、丹家で用意された淡い緑の綿の着物を取り出し、無表情で着替えを手伝う呂萩からは、何を考えているのか、まったく読みとれない。
「妻」と呼べぬ香淑を内心で嘲っているのか、同情しているのか。
榮晋が香淑と床を共にする気がないと知っていて、夕べ、あえて床入りの準備をしたのか。榮晋の真意を知っているのか、それさえも。
表情を変えることなく淡々と職務を遂行する呂萩は、まるで老女の姿をした人形のようだ。
おそらく、香淑が丹家の女主人として何の役に立たなくても、家政のことは呂萩がすべて取り仕切って、滞りなく行われるのだろう。
だが、香淑も最初から何もせずに諦める気はない。
「……榮晋様は、どちらにいらっしゃるのですか?」
帯を結ぶ呂萩に問うと、すぐさま答えが返ってきた。
「榮晋様はお出かけになられております」
いつからなのか、どこへなのかも、わからぬ答え。
香淑の寝台を出た後、夕べからお気に入りの
つきりと
「どちらに出かけられているか、知っているの?」
「もちろんでございます」
香淑と視線を合わせぬまま、呂萩が即答する。
「お取引相手のところでございます」
丹家は遠方との商取引に手広く出資していると聞いた記憶がある。取引相手ということは、商人だろうか。
香淑はじっと呂萩の顔をうかがうが、深いしわが刻まれた顔からは、何一つ読み取れない。
その無表情を崩したい衝動に駆られて。
「――呂萩は、榮晋様がわたくしを娶った理由を知っていたの?」
問うた瞬間。
呂萩の顔が凍りつく。
驚愕と
香淑には読み取れぬさまざまな感情が、老女の顔を通り過ぎる。
香淑が次の言葉を紡ぐより早く。
「食べられたら食器はそのままで結構です。後で取りにまいりますから」
投げ捨てるように告げた呂萩が顔を背け、逃げるように部屋を出ていく。
痩せた背中から立ち昇るのは、強い拒絶だ。
「呂……」
香淑の声を遮るように、ぱたりと扉が閉められ。
一人残された部屋で、香淑は呆然と扉を見つめた。
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