6 本物の花嫁は、今、目の前にいるだろう?
自室の前で立ち止まった榮晋は、扉に手をかけようとして、ためらった。
可能ならば、このまま
が、それが不可能なことは、榮晋自身が誰より承知している。
無意識に吐き出しそうになる溜息を
開けた瞬間、室内からあふれるように流れ出てきたのは、妙に甘く、重く湿った匂いだ。
榮晋は空気を入れ替えるように、あえて一度大きく扉を開けてから、室内に入る。が、扉を閉めた途端、再び重苦しいほどの甘い匂いが押し寄せる。
室内は、夜とは思えないほど明るい灯火で満たされていた。
扉の正面。部屋の奥に置かれた長椅子に、しどけない仕草で身を横たえているのは。
「ふふ。やけに早いお戻りなのね」
花嫁衣装を纏い、艶然と微笑む美貌の女――
陶器を思わせる白い肌。
大輪の花を思わせる華やかな顔立ちは、しかし、一片の可憐さもなく、妖艶さしか感じない。
複雑に結い上げた白銀の長い髪と、鮮血で染め上げたかのような紅玉の瞳という組み合わせが、この世ならぬ凄艶さを具現していた。
濃く紅を引いた唇が、吊り上がるように弧を描く。
「よかったの? 婚礼の夜だというのに、花嫁を放ってきて」
優越感にまみれた声。
花嫁衣装を纏い、今宵、嫁いできた香淑のことを、媚茗は楽しげに口にする。
鉛でできた男でも
赤地に金の刺繍の花嫁衣装は、香淑が着ていたものと、寸分たがわず同じものだ。
だが、榮晋は媚茗に香淑の花嫁衣装を見せた記憶はない。先ほどの婚礼を盗み見していたに違いない。
さすがの媚茗でも、榮晋が初めて正式に妻として迎え入れた香淑のことは、気になるらしい。
婚礼のその晩に、わざわざ香淑とそっくり同じ花嫁衣装を纏って現れたのが、いい証左だ。
が、あまりに香淑に興味を持たれすぎても困る。
榮晋はからかうような笑みを口の端にのせると、肩をすくめた。
「あれは、子を生すための形ばかりの花嫁だ。本物の花嫁は、今、目の前にいるだろう?」
榮晋の返事に、媚茗が満足そうに笑みを深くする。
「来て」
長椅子から立ち上がった媚茗が、たおやかな手で、榮晋を奥の部屋へ招く。
榮晋は素直に従った。奥にあるのは榮晋の寝室だ。
無造作に扉を開け、媚茗は綺麗に整えられた寝台へ歩み寄ると、榮晋を振り返った。
寝室は明かりが少ない。先ほどの部屋との落差に、さらに薄暗く感じる部屋の中で、媚茗の白磁の肌だけが、浮き上がるように白い。
花嫁衣装に包まれた熟れた身体を誇示するように、媚茗が寝台に腰かける。くびれた腰から続くまろやかな肢体の重みに、布団が柔らかに沈んだ。
「花嫁というのなら、ねぇ?」
立ったままの榮晋に伸ばされるしなやかな腕。
理性を融かすような甘い声。
紅玉の瞳が
何も知らぬ男なら、頷く間も惜しく、柔らかな肢体を寝台に押し倒しているだろう。
「新参者に一度精を放っただけで終わり、だなんて言わないでしょう?」
言外に、そんなことは許さないという気配をこめて、媚茗が笑む。
「丹家の血を絶やさぬように子を作れ、と言ったのはあなただろう?」
媚茗と一歩分の距離を保ったまま、榮晋はすげなく返す。
香淑とのやりとりを媚茗に知られていなかった安堵を、胸の奥に隠しつつ。
媚茗が
「家が絶えて困るのは、あなただって同じことでしょう? 私だって、永く見守ってきた血筋が途絶えるのは忍びないわ。それに」
不意に、媚茗がたおやかな容姿からは信じられぬ力で、榮晋の右手を掴んで引き寄せる。
氷を押し当てられたような媚茗の手の冷たさに、榮晋は反射的に手を振り払いたくなるのをかろうじて自制した。
先ほど、香淑のあたたかな肌にふれたせいだろうか。氷を削って作ったかのような媚茗の手に、いつも以上の嫌悪を感じる。
前かがみになった榮晋の面輪に、媚茗が右手を愛おしげに
「あなたの子どもなら、どんな綺麗な子が生まれるかしら。考えるだけで、ぞくぞくするわ」
宝玉を愛でるかのように、ゆっくりと媚茗の指が榮晋の面輪を撫であげる。
背中がぞくりと
榮晋はもう、とうの昔に考えるのをやめている。
「長年、丹家に取り憑いてきたけれど、あなたほど綺麗な人間は初めて。ふふっ、これが、人間が言う恋というものなのかしら……?」
楽しげに囁きながら、媚茗が榮晋の右手を、己の着物の
しゅす、と衣擦れの音とともに露わになるのは、雪よりも白いたわわに実ったまろやかな果実。
ひやりとなめらかな媚茗の肌に、榮晋はいつも、己の手が沈み込んでいくのではないかという感覚に襲われる。
このまま、甘く重い闇の中に囚われてしまうのではないかと。
媚茗がゆっくりと寝台に身を横たえる。右手と顔を捕らえられたままの榮晋も、寝台に乗らざるを得ない。
媚茗に覆いかぶさる姿勢になった榮晋の頬を、不意に、冷たく湿ったものが
媚茗の紅の唇を割って出た、長い舌が。
「本当は、一夜たりとも、あなたを他の女なんかに貸し与えたくないわ……」
情念のこもった声とともに、ちろりちろりと、長い舌が榮晋の頬を、耳朶を、首筋を、唇を舐めてゆく。
先が二つに割れた――
「指も声も視線も――。あなたのすべては、私だけのものよ――」
うっとりと甘い声が、榮晋を絡めとる。
衣擦れの音とともに、華やかな婚礼衣装がほどけてゆく。
深く
白くなまめかしく、妖花が、咲いた。
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