5 来てるよ。部屋に。
身をひるがえして寝台から下りた榮晋は、振り返りもせず香淑の部屋を出、音高く扉を閉める。
間違っても追いすがられぬよう、足早に薄暗い廊下を進み。
心の揺れが伝わったかのように、足取りが乱れている。
「くそっ」
誰もいないのをいいことに舌打ちする。鋭い音が夜の闇の中に音高く響いた。
告げる気など、まったくなかった。
子を生さぬという決意も、香淑を娶った本当の理由も――。
けれども、香淑が榮晋の予想とあまりに違い過ぎて。
何とかして化けの皮を
そもそも、初めてまともに見た香淑の姿からして、榮晋の想像の
夫三人を殺したと噂の女狐というから、どんなしたたかな妖婦かと思いきや――薄い紗の下に隠れていたのは、十歳も年上とは思えぬ清楚な美貌で。
まるで、初婚の花嫁のような初々しさに、榮晋は
だからこそ、何としても本性を見抜いてやろうとしたのだが……。
逆に、己の方が、言うはずのなかった言葉をこぼしてしまうなんて、お笑い草だ。
榮晋は、自嘲に口元が歪むのを感じる。
きっと、あの涙のせいだ。
女人の涙はどうにも苦手だ。
榮晋が誰よりも幸せになってほしいと願う姉を連想させて。
つきり、と胸の奥でうずく罪悪感を、かぶりを振って胸の奥底へ追いやる。
涙程度でほだされそうになるなど、自分自身に
きっと、あれも女狐の
噂とは裏腹の純情そうな仕草で、夫の心を揺らす――。
今までの夫もそうやって
ぎり、と口内で不快な音が鳴る。と。
「榮晋! 榮晋っ!」
自分を呼ぶ、子ども特有の高い声に、榮晋は足を止めた。
渡り廊下の両側は、少しの空間をあけて木立ちが並んでいる。昼間ならともかく、夜も更けてきた今は、
沈むような闇の中から、ぱたぱたと軽い足音を立てて駆け寄ってきたのは。
「どうした?
よく見知った童子の姿に、榮晋は首をかしげた。
晴喜と呼ばれた七歳ほどの少年は、渡り廊下の
「よいしょっ」
と、掛け声をかけて、身軽に乗り越えた。
少年が
同時に、少年の背中側からのぞく、くるんと丸まった尻尾が、ぴょこんと揺れた。
榮晋のすぐ隣まで来た晴喜は、くりくりとした大きな目を感嘆に見開く。
「うわぁ~っ、今日の格好はいつも以上に立派だね~っ!」
短い髪の間から、ぴんっと立った犬の耳が、ぴこっと揺れる。夜ではわかりにくいが、耳も髪も尻尾も、こんがりと焼いた
童子の姿をしているが、晴喜は人間ではない。丹家に身を寄せている犬の妖怪だ。
年経た動植物や器物が、何らかの拍子に変じるのが妖怪だが、むろん、誰にでも妖怪が見えるわけではない。
妖怪の方でも、人間を襲うために身を潜めているものがいれば、気に入った人間を守護する変わり者もいる。
晴喜はかつて、丹家の隣に住んでいた一家で可愛がられていた長生きした犬が、死後も大切に祀られて、妖怪となったものだ。
その来歴のせいか、妖怪と言えば、人を襲い、血肉や精気を奪うモノが多い中で、晴喜は驚くほど人懐っこい。
晴喜の言葉に、榮晋はひそやかな苦笑を洩らす。
もし、余人が榮晋の今宵の衣装について口にしていれば、怒りが湧いただろう。
婚礼は香淑を家から連れ出し、榮晋の手元に置いておくための便宜的な手段にすぎない。
だが、純粋に感じ入っているのだと、聞いただけでわかる純粋な晴喜の言葉は、ささくれだった心をほぐすかのようだ。
「褒めても何も出んぞ」
言いながら、晴喜の頭を撫でると、くすぐったそうな笑顔が返ってきた。
「それより、どうした?」
晴喜が夜に現れることは滅多にない。見た目は童子だが、本人の言によると百年は生きているという話だから、夜は早々に寝ているわけではないだろうが。
晴喜曰く、夜より朝や昼の方が好きらしい。
「もしかして、婚礼の宴の料理でも期待して来たのか? あいにく――」
「作ってないことくらいわかってるよ! ぼくを何の妖怪だと思ってるのさ!」
晴喜が自慢げに鼻をつんと上に向ける。
犬の妖怪だけあって、晴喜は匂いにはすこぶる敏感だ。
「それより、その」
珍しく、晴喜が言いよどむ。
榮晋を見上げた茶色の瞳は、怯えと憂いに揺れていた。
「来てるよ。部屋に」
「……そうか」
洩れ出たのは、苦い声。
婚儀の時から、気配は感じていたが――。
「教えてくれて、助かる」
謝意をこめて晴喜の頭を撫でると、晴喜の目に、ためらいと気遣いが浮かんだ。
「その……。いいの? 今日は、婚礼の当日なのに……」
「かまわん」
榮晋の鋭い声に、晴喜の小さな肩が、びくりと揺れる。
しまったと一つ吐息すると、榮晋はきつく聞こえぬよう、声音を意識して口を開いた。
「……婚礼の夜だからといって遠慮するような奴ではないだろう?」
「そうだろうけど……」
ぐっ、と顎を上げ、榮晋を見上げる晴喜の目には、榮晋を心配する気持ちと、己の無力さへの嘆きが入り混じっている。
「ごめん。ぼくが……」
晴喜が泣き出すのではないかと思えて、榮晋は慰めるように晴喜の短い髪を勢いよくかき混ぜる。
「何するんだよっ! ぐしゃぐしゃになっちゃうだろ!」
両手で頭を押さえる仕草が可愛らしくて、思わず口の端に笑みが浮かぶ。
「すまんすまん。
呂萩が晴喜を孫のように可愛がっているのを知っている。
「お菓子なんかでごまかされないからな!」
言いつつも、晴喜の目がそわそわと左右に揺れる。
同時に、くるんと巻かれた尻尾が、喜びを素直に表してぱたぱたと揺れ、榮晋は思わず笑みを深めた。
「呂萩も大役を果たして、十日ぶりに帰ってきたのだ。お前の姿を見れば、喜ぶだろう。行けぬわたしの代わりに、お前が行って、ねぎらってやってくれぬか?」
晴喜の目を見つめ、穏やかに頼むと、
「しょうがないなぁ」
と、さも表面上は仕方がなさそうな口ぶりで、晴喜が吐息した。
「じゃあ、呂萩のところに行ってくる。あっ、言っておくけど、お菓子のためじゃないからね! お菓子はあくまでついでだからねっ!」
「わかっているとも」
晴喜の言葉に、榮晋は笑顔でゆったりと頷く。晴喜の純真さは、重苦しい生活の中での清涼剤だ。話しているだけで癒される。
「ほら。呂萩も待っているやもしれん。行ってやってくれ」
促すと、晴喜がためらいがちに頷き、欄干を乗り越える。
夜の中に溶け込んでゆく揺れる尻尾を見送り。
自室に待ち受けるものに思いを
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