4 わたしが知らぬとでも思ったか?


 ばたり、と入室を請う声も何もなく、乱暴に扉が開けられる。


 寝台の上で正座して榮晋の訪れを待っていた香淑は、弾かれたようにぬかずいた。


 扉を閉めた榮晋が、寝台へと歩んでくる気配を感じる。

 寝台の前に置かれた衝立ついたてを、榮晋が回り込んだところで。


「だんな様。不束者ふつつかものでございますが、どうか幾久いくひさしく可愛がってくださいませ――」


 震えそうになる声を押さえつけ、新妻としての口上を述べる。が、榮晋からは何の言葉も返ってこない。と。


「つまらんな」


「え?」

 思わず身を起こした途端、視界が反転した。


 ぼすりっ、と背中に布団が当たり、肩を掴んだ榮晋に押し倒されたのだと、ようやく気づく。


 反射的に身をよじって逃れようとした時には、寝台を軋ませ、榮晋が香淑の上に馬乗りになっていた。


 息がかかるほど近くに、白皙はくせきの美貌が迫る。


 しかし、香淑を見下ろす闇色の瞳には、新妻に対する優しさも、初夜に対する情欲もうかがえない。


 まるで、買い上げた品物を検分するかのような、冷ややかなまなざし。


 形良い薄い唇が、温度のない声を紡ぐ。


「型通りの口上で、わたしを篭絡ろうらくできるとでも? 見くびられたものだな。それとも、若い男なら、熟れた身体にたやすくおぼれるだろうと侮っているのか?」


 左手を香淑の顔の横につき、膝立ちで馬乗りになった榮晋の右手が、押し倒された拍子に乱れた夜着の裾を割って、忍び込む。


「っ⁉」


 膝から太ももへと肌を撫で上げる手のひらに、香淑はびくりと身体を震わせた。自分のものではないあたたかな手のひらが肌にふれる感覚に、無意識に身体が反応する。

 榮晋が、く、と口角を吊り上げた。


「なるほど。吸いつくような肌ざわりは、若い娘では得られぬ柔らかさだな。それに、このあたたかさ……。いくらふれても飽きなさそうだ」


 ゆっくりと、大きな手のひらが味わうように太ももをすべる。


「……っ」

 羞恥と未知の感覚に、香淑は思わず固く目を閉じた。


 心臓が壊れそうなくらい騒ぎ立てている。熱に浮かされたように顔が熱い。

 榮晋の手にふれられたところから、身体が融けてしまうのではないかと、不安になる。


 未知の体験に恐怖がないわけではない。


 だが。それを押しのけて心に湧き上がるのは、今度こそという、祈りにも似た願いだ。


 先ほどの冷ややかな声とまなざしが嘘ではないかと思えるほど、榮晋の手は優しい。


「ん……っ」


 思わず声が洩れた恥ずかしさに、顔を背ける。


 あらわになった首筋に、榮晋が顔を寄せた。熱い吐息が肌をくすぐる。


「まるで、初婚の娘のような初々しさだな」


 艶のある声が耳朶じだを震わせた。かと思うと。


「ひっ!?」


 がぷり、と首筋に歯を立てられ、香淑は悲鳴をほとばしらせた。


 驚愕に目を見張り、振り返った先にあったのは、観察するようなまなざしで見下ろす、榮晋の面輪おもわ


「初々しい花嫁を演じる必要など、どこにもない。そんな演技に誘われて、わたしがお前を抱くとでも?」


 薄氷を纏う声音に、冷水を浴びせかけられたように、急速に身体の熱が冷めていく。


 太ももにふれていた榮晋の手が離れ、首筋にふれる。


「ひっ」

 薄くついた歯型を辿る指先に、香淑は思わず悲鳴をこぼし、身体を強張らせた。


「いや……っ」


 唇だけで、声にならないかすれた悲鳴を紡ぐ。

 榮晋の眉がきつく寄った。


「嫌? それはこちらの台詞だ」


 嫌悪を隠しもせず、榮晋が吐き捨てる。


「わたしは子をす気などない」


 ずくり、と不可視の刃が、無造作に香淑の胸に突き立てられる。


 結婚話が持ち上がった時から、覚悟していた。

 きっと自分は、お飾りの妻として迎えられるのだろうと。


 けれども。

 せめて、形ばかりの妻であったとしても――。


 誰にも明かさず、胸の最奥に隠していた願いを、嫌悪と侮蔑で踏みにじられた痛みに、身体が反応する。


 じわりとあふれた涙に、榮晋の端麗な面輪がぼやける。


 にじむ視界の中、目を見開いた榮晋が、次いで苛立たしげに美貌をしかめるのが見えた。


「泣けば男が意のままになるとでも? 涙を見せてしおらしいふりをすれば、わたしが改心するとでも思ったか?」


 きつく眉根を寄せたまま、榮晋が吐き捨てる。


「器用に涙を出せるものだな、女狐は」


「っ⁉」

 最後の一言に、息を飲む。


 まさか、と心のどこかが叫ぶ。

 まさか、榮晋が知っているはずはあるまいと。


 目を見開き、血の気の失せた唇をわななかせる香淑を見下ろし、榮晋がくつりと喉を鳴らす。


 闇色の瞳に宿るのは、獲物をなぶる猫のような嗜虐的しぎゃくてきな光。


 薄い唇の両端を、挑むように吊り上げ。


「わたしが知らぬとでも思っていたか? そんなはずがないだろう。知っていて、めとったのだ」


 艶のある声が、冷ややかに香淑を斬り伏せる。


「いい加減、本性を現したらどうだ? 『夫君ふくん殺しの女狐』め」



   ◇ ◇ ◇



 呼吸が、思考が、すべてが止まる。


 ただただ、涙だけが、降りやまぬ雨のようにまなじりからこぼれ落ちる。


 榮晋が怒気を隠さず「はんっ!」と鼻を鳴らした。


「涙を流しても無駄だと言っただろう?」

 闇色の瞳に、剣呑な光が宿る。


「もはや取り繕う必要はない。いい加減、本性を見せてみろ」


 挑むような声。


 だが、香淑には榮晋が何を言いたいのかわからない。


 ただ、榮晋が言葉を発するたび、心に刃を突き立てられているかのような痛みを感じる。


 哀しいのか、恐ろしいのか、おびえているのか……。自分ですら、己の心の形がわからない。


 ただただ、心に納まりきらぬ感情が、涙となってあふれ出す。


 無言ではらはらと涙をこぼす香淑に、榮晋が苛立たしげに眉をひそめる。


「いい加減に――」

「なぜ、ですか……?」


 ぽつり、と香淑が洩らした声に、榮晋が口をつぐむ。


「なぜ、『夫君殺しの女狐』と知っていて、わたくしをめとられたのです……?」


 なぜだろう。

 苛々と怒気を放つ榮晋は、身が震えそうな恐ろしさだというのに。


 闇の色を宿した瞳の奥深くに、まるで迷い子がすがるものを探しているかのような頼りなさが見えた気がして。


 香淑は泡沫うたかたのように浮かんだ疑問を、吟味せぬまま口にする。


 その途端。


「っ⁉」


 榮晋の面輪を彩った苛烈な怒気に、香淑は思わず息を飲んだ。


 猛々しい激情を宿したまなざしが、香淑の心を奥底まで刺し貫く。


 憎悪と苦悩と絶望と――。

 あらゆる負の感情が吹き出したかのような、凄絶な表情。


 だというのに。

 榮晋の右手が、香淑の髪にふれる。


 愛しい宝物を愛でるかのような。そんな錯覚を起こしそうなほど、優しい指先がこめかみから頬へとすべり。


 不意に、白皙はくせきの美貌が近づく。

 唇がふれるのではないかと思うほど、間近に。


「お前を抱く気はない。子をす気もない」


 艶やかな声が、激情をはらんで、不可視の刃を紡ぐ。



「お前をめとったのは――わたしを殺してもらうためだ」

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