3 花嫁が怯えるさまを見たか?
「ご主人様のおなりをお待ちください」
ぱたりと戸を閉めて呂萩が出て行った途端、香淑は糸が切れた人形のように寝台に座り込む。
婚礼の時の誓いの盃で酔ったのだろうか。それとも、頭が現実を認めたくないのだろうか。
思考が散って、まとまらない。
我知らずこぼれた吐息が、初夏の夜にしてはやけにひんやりとした空気を揺らす。
婚礼はあっけないほどあっさりと終わった。
堂に祀られた
たった、それだけだった。
両親はすでに亡く、榮晋が丹家の当主だとは聞いていたが、他に一人の身内の姿もなく、堂にいたのは、香淑と榮晋、呂萩の三人だけだ。
あっという間の婚儀の後、香淑が呂萩に連れられて向かった先は、広い丹家の邸内の中でも、奥まった棟の一室だった。
これから、ここが香淑の部屋になるのだという。
必要最小限の調度品だけがそろえられた部屋で、香淑は呂萩によって花嫁衣装を脱がされ、代わりに絹でできた薄物の
黙々と、するべき仕事をした呂萩が去っていった扉に、香淑は視線を向けた。
嫁ぐのは四度目だ。
この後、『何』があるかなど、聞くまでもなくわかっている。
……香淑自身に経験はないが。
香淑は右手で左の肩口の衣を握りしめた。着物の上からではわからぬが、そこには肩から胸にかけて走る刀傷がある。
着替えを手伝った呂萩は、年の功か、はたまた修練の
そもそも、三十三歳にもなる香淑が、いまだに男を知らぬとは、天地がひっくり返っても思うまい。
傷物よと、呆れられ、
香淑は先ほどの榮晋の笑みを思い出し、身を震わせる。
怯える香淑に、満足そうに笑んでいた榮晋。
花嫁衣装に浮かれ、他愛ない幻想を抱いていた己を罵ってやりたい。
もしかしたら、今度こそ、幸せな結婚生活を営めるかもしれないと、そんな甘い期待をだくなんて、なんと愚かだったのかと。
これから我が身がどうなるのだろうかと、恐怖に身を震わせる。
だが、儚い灯火が揺れるだけの部屋の隅に
◇ ◇ ◇
「花嫁様のお支度が整いました」
「そうか」
深々と腰を折り曲げて告げた呂萩の報告に、榮晋は
冠だけは取り、一つに束ねた長い髪を下ろしているものの、榮晋はまだ婚礼衣装のままだ。
顔を上げた呂萩が、気遣わしげなまなざしで榮晋を見やる。
「……本当に、よろしいのでございますか?」
淡々とした声。だが、つきあいの長い榮晋は、呂萩の声の裏に隠された不安とためらいを感じ取る。
「無論だ」
呂萩の迷いを断ち切るかのように、榮晋は決然と言い切る。
「いったい何のために大金を出してあの花嫁を買ったというのだ? いまさら、やめることなどできぬ」
呂萩は答えない。榮晋は熱に浮かされたように言を継いだ。
「『
一目見て悪女とわかる女ならば、
可憐な花のような容貌は、榮晋の想像の
「何より」
榮晋は己の口元が喜びに緩むのを感じる。
「花嫁が怯えるさまを見たか?」
榮晋の脳裏にまざまざと浮かぶのは、三十路過ぎとは思えぬ若々しい顔をこわばらせ、震えていた香淑の姿。
本来ならば胸が痛むはずの表情に、しかし榮晋が感じたのは、強い歓喜だった。
「噂は真実だったらしい。手を尽くして探し求めた甲斐があったというものだ」
「……ですが」
呂萩が気遣わしげな声を上げる。
「
「相手は女狐だ。本性を隠す程度など、お手の物なのだろう」
くつくつと喉を震わせながら、榮晋は椅子から立ち上がる。
今頃、一人きりの寝室で、香淑は何を考えているのだろう。
丹家の富を吸い尽くす算段か、榮晋を
まさか、生娘のように震えているはずはあるまい。
「だが……。いつまでも、借りてきた猫のようでは困るな」
戸口へと歩み寄りながら、榮晋は呟く。
「早く、本性を現してもらわねば――。『夫君殺しの女狐』殿には」
どうやったら香淑の本性が見られるだろう、と榮晋は思案する。
知っているのだと告げ、
では、期待を手酷く裏切ってやったなら?
可憐な面輪の裏側に、どんな本性が隠れているのか、自らの手で化けの皮を
そう思うだけで、心の奥に
誰かを想って心が躍るなど、久方ぶりだ。
唇に歪んだ笑みを
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