第41話 華蝶の簪の眠り

 封印の準備が始まった。割れた岩の横に私が立ち、セイランが周囲に魔法陣を描く。ユーエンの手には短い双剣が握られている。


『護りの力を解くぞ』

 〝華蝶の簪〟の声と同時に周囲の空気の温度が上がり地鳴りが響く。


「何?」

 揺れていないから地震ではない。では何かと見回していると、青い空が溶けて夕焼け色の赤に染まった。周囲の景色が一変する。

 焦げ茶色になった地面のあちこちで、黒い泥が沸き上がってきた。巨人の姿を作って床に叩きつけたような、黒い粘土の塊が現れる。


「嘘……」

 脚はなく、無数の手が塊を動かしていることに気が付いて私は震えた。今まで見たことのない、何か。

 急速に指先の温度が下がっていく。背筋が寒いなんてものじゃない。堕ちたとはいえ、神に対する畏れは全身の温度を奪って行く。


 あっという間に魔法陣は黒い塊たちに囲まれていた。数え切れない黒い塊が無数の手でうごめく。怖くて脚が震える。


「大丈夫です。私が必ず護ります」

 ユーエンの凛々しい声と笑顔で安心した。きっとかならず護ってくれると素直に信じることができる。


沙蜘蛛さぐもよ。封印ではなく斬ってもよいか』

 ユーエンの口から、いつもとは全く異なる声が出た。複数の人間が同時にしゃべっているような声。


『久しいな。千二百年ぶりか、剣神・双華そうがよ。カズハのおかげで力は弱っているが、数は多いぞ』

 簪の声が心なしか弾んでいるように聞こえる。


この男ユーエンが、斬りたくて仕方ないそうだ!』

 声と同時にユーエンが走り出した。双剣は赤い光を帯びて伸び、まるで炎の剣。ユーエンは次々と黒い塊を斬り捨てていく中で、鋭い爪がユーエンの衣と体を斬り裂く。


 斬られた黒い塊は、黒い煙を上げながら赤黒く腐り落ちて消えていく。数体がまとまってユーエンに襲い掛かっても、赤い炎が斬り拓く。

 

 自分の血に塗れても微笑みながら双剣を振るうユーエンの姿は、剣神と言って間違いなかった。


 無限に地面から湧き出てくるのではないかと思っていた黒い塊の数が減っていく。残りさん体になった時、黒い塊たちが唐突に岩の割れ目と飛び込んだ。


『斬られるのを厭うたか! カズハ!』

 簪が剣へと変化して私の手に現れた。いつもの紫水晶の柄ではなく、柄も刀身も青く光る剣。


「閉じますよ!」

 セイランの声で割れていた岩が黄色に光り、轟音を立てて一つになる。


 ここからが私の役目だ。剣を垂直に構え、簪に教えられた言葉を神々に捧げる。

いにしえの神々よ。どうか聞き届け給え。人々は愚かなれど、未だ道半ば。魂の学びが未熟な者たちに慈悲の心を。再びの機会を与え給え!」

 光る岩に青い剣を静かに突き立てると、まるで蒟蒻に串を刺すような感触で剣先が吸い込まれていく。


 剣を通して私の力が岩の中へと伝わっていくのを感じる。黄色く光っていた岩が白く光り出した。

 私の胸の奥から白い光が放たれると、岩の割れ目は塞がり、ユーエンの血は消え傷が閉じた。白い光は夕焼け色の空を焼き、こげ茶色の土を溶かす。そして空の色が青く戻った。


 青い空には大きな赤い月と緑の月。そして小さな白い太陽。


「封印……できた?」 

『ああ。これでしばらくは安心だ。……皆、礼を言う……ぞ……』

 剣が私の手の中で蝶の簪に戻った。蝶になる前に、一瞬蜘蛛の姿になったのは見間違いではない。もしかしたら、蜘蛛では髪に挿してもらえないので、蝶の姿になっているのだろうか。


「あれ?」

 手の上の簪はいつもと雰囲気が違っている。軽く思えて戸惑う。

『安心せよ。深く封印する為に力を使い果たして眠りについただけだ。しばらく眠れば力も戻り、目覚めるであろう。……我も去る。また会おう』

 ユーエンの口を借りていた剣神も消え、剣の赤い光も消えた。


 緊張が解けて、座り込みかけた私をユーエンが抱き止める。


「ありがとう」

 侍女の時とは違う男性的な顔はカッコイイ。近すぎる距離にある翡翠の瞳は凛々しくて、胸がドキドキする。双剣で戦う姿は美しく、完全に男だった。


 抱き止められたまま無言で見つめ合っていると咳払いが聞こえて、慌てて離れた。……ちょっと素敵と思っただけで、何でもない。


「後宮へ帰りますか? それとも……」

 セイランが意地悪く微笑む。

「それとも?」

 帰る以外のどんな選択肢があるというのだろうか。そうは思いつつも、後宮のことを考えると気が重い。


「……帰りましょうか。カズハ様」

 侍女の顔に戻ったユーエンが、少し寂し気に微笑んだ。

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