第37話 秘密の漏洩

 流れ込む力は目の前の美女からだけでなく、空間全体からのように思える。空気が渦巻き、私の右手の平に吸い込まれていく。


『何をしたっ! 体が動かないっ!』

 私を睨みつけ怒鳴り声を上げる。私は拘束の術を使っていないのに、針を飛ばすこともできないらしい。 


 美女の体が見る間に縮み、ついには豪華な衣も消え去って、黒い床の上に力なく大きな金魚が横たわっていた。


『これで普通の金魚と変わらぬ。力を望むなら、また一から始めるしかない』

 人を食べるようになるまでは三百年は必要らしい。


 目の前の命を助けたことが本当に良かったことなのか、心の中では迷っている。人を食べてきた化け物だと思うのに、誰かを待っているという気持ちに共感してしまった。


『人は迷うものだ。その選択が正解だったのかどうかは、後で無ければわからない』

 簪の声は優しく私の心を包む。


 確か金魚は手の温度で火傷すると聞いたことがある。手のひらを癒しの光で覆って、そっとすくい上げる。金魚は口をぱくぱくとさせるだけで力はない。


 暗かった空間に光が差し込んで黒い床が砂になって消え去っていく。

「朝?」

『魔力で作られた結界内は、時間が歪むことがある』


 すべてが消え去った後、私たちは娼館の裏庭にあった池の前に立っていた。

「池に放していい?」

『お前の望むままにすればよい』

 池の中にそっと金魚を放すと、よろよろとしながらも泳ぎ始めてほっとする。


「金魚の数、少なくない?」

 昨日見た時には、もっとたくさん泳いでいたような気がする。

「そうですね。もっといたように思います」

 苦笑するユーエンが、警戒を解いて双剣を下げた。湯着の胸元がはだけていて、男らしさにどきりとする。


「お、男っ!?」

 レイシンが叫び声を上げた。ユーエンの胸を見て、目を瞬かせている。あー、これはめんどくさいかも。どうやって口止めしようかと考えていると、二人の兵士が走り寄って来た。


「兵隊長! お、女が消えて! その! あの!」

 兵士が手に包んでいるのは、少し大きめの金魚。もしかしたら私は、他の金魚たちの力も吸ってしまったのかもしれない。周囲を見れば、あの立派な建物が綺麗に消えて草原になっていた。下穿き姿の兵士たちが困惑しながらうろついている。


「あ!」

 私は気が付いた。

「皆! 金魚を探して池に戻して! 手で直接触らないで!」

 私の叫び声を聞いて、全員が周囲を見回し始めた。すっかり自然に戻ってしまったので、見つけるのも一苦労。


 兵士たちが服や手巾に金魚を乗せて池に向かって走ってくる。中には、二匹三匹と複数手にしている者もいて、見なかったことにしようと心に誓う。


「こ、これで全部? 金魚の干物とか、絶対に嫌よ!」

 私の悲鳴を聞いて、兵士たちがまた捜索に入ってくれた。十数匹が発見されて無事に池に戻され、私も小さな一匹を見つけることができた。

 

「はー。もう疲れたー」

 ぐったりと皆で座り込む。好みの女だったのに金魚が正体だったとへこむ兵士たちの声は聞こえないふりをするしかない。


 池の中では美しい金魚たちが騒ぎを忘れたように優雅に泳いでいて、誰からともなく笑い声が広がっていく。


「あれ? セイランは?」

『王宮から呼び出しを受けて一度戻った。昼前には戻ってくる』

 〝華蝶の簪〟の声で安心した。呼び出しは誰からだろう。

「誰からですか?」

 私と同じ疑問をレイシンが簪に問いかけるも、簪は沈黙してしまった。簪はレイシンを嫌っているように思えてきた。何故と考えてもわからない。


 あの金魚の美女の思い出に出てきた旦那様がレイシンに似ていた。リョウメイにも、どことなく似ているような気がする。

「レイシン、さっきの金魚が言ってた旦那様の顔って、見た?」

「顔? いいえ、見ていません」

 ユーエンにも聞いてみたけど、見ていないと返事があった。


 私の気のせいというか、心の奥底で作ったイメージだったのかもしれない。レイシンの顔を見つめていると、リョウメイの顔のイメージが少しずつ薄れていることに気が付いて背筋が冷える。


 リョウメイが異世界の技術を嫌がったから、写真はない。目を閉じれば鮮明に顔が思い出せると思っていたけれど、私の心が勝手にイメージで補完してはいないだろうか。戦いの高揚感が急速に冷えていく。


「皆、疲れてると思うし、お昼までここで休憩しましょ」

 私の提案に同意したレイシンが、兵士たちに指示をする。


「カズハ様、あちらの湧き水で体を拭きましょうか」

 ユーエンの声に頷いて立ち上がるとレイシンが戸惑いの表情で私を見つめた。

「その者は男なのでしょう?」

「信頼できるかどうかに性別なんて関係ないの。侍女の仕事を一生懸命務めてくれているもの。護衛でもあるし。……このことは秘密にして」

 まっすぐに緑の瞳を見つめていると、ふっとレイシンの力が抜けたように感じた。


「そうですか。貴女はその者が好きなのですね」

「ど、どうしてそうなるのよ!?」

「自覚がないだけですよ」

 見ていればわかるとレイシンが眉尻を下げながら笑う。


「私は王宮に戻ります」

「あと十三日は休暇があるんじゃないの?」

 レイシンは優しい笑顔を見せるだけで、何故戻るのかの答えは返ってこなかった。


 ただ、すっきりとした表情でレイシンは私たちと別れた。

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