第36話 娼館の主

 ユーエンに続いて扉を抜けると、三十畳くらいの部屋の壁一面に金魚が入った水槽。床は黒の大理石。天井全体が発光していて明るく、ひらひらと空を舞うように沢山の金魚が泳いでいる。


「誰も……いない? なーんだ。ごめんなさい。私の気のせいだった」

 安堵の息を吐く。元の世界で読んだ童話とよく似たエピソードが続いたから人を食べる化け物がいるかと思った。


 ユーエンとレイシンは警戒を解いてはいない。鋭い眼差して周囲を伺っている。その様子は私の心を不安にさせた。


 ひゅっという風切り音の後、何かを金属で弾いた音が響く。

「え?」

 レイシンの手には魔法のように現れた三節棍が握られている。五十センチ程の黒い三本の棒が金属の輪で繋がった武器。湯着の下に隠していたのだろうか。


「カズハ様、私の後ろに。御身の盾になります」

 何故と理由を聞ける雰囲気ではなかった。無言のままレイシンの後ろに下がる。後ろにあった扉は消えて水槽に変わっていた。


 ユーエンも双剣を手にして、いつでも戦える姿。時折聞こえる風切り音、二人が何かを弾く音が狭い部屋の中に響く。


 周囲を見回すと、黒い床の上に赤い二十センチ程の長さの太い針が何本も落ちている。半透明の針は濡れているからか、黒い床の上では目立たない。


『……あらあらぁ、今日のご飯は荒々しいですこと。私の鱗が足りなくなりそうだわぁ』

 ねっとりとした女性の声が聞こえて、突然部屋が広がった。


 自分を中心にして部屋がどこまでも広がるという光景は、映画のようで現実味がない。


 ゆらゆらと景色が歪んで、姿を見せたのは金の飾りが揺れる古代中華風の冠を戴いた長い白髪に金色の瞳の美女。朱色の布に金糸銀糸の刺繍がびっしりと施された婚姻衣装に似た豪華な装束が風もないのにそよぐ。


『……あれは千のよわいを重ねようとする者だ。魔の力を持っておるぞ』

 久しぶりに〝華蝶の簪〟が言葉を発すると、驚いた顔をしたレイシンが振り向いて簪を凝視する。


『不愉快ねぇ。確かに私は、あと三百年で千の齢に達するの。神にも等しい力を手に入れるわ』

「……金魚なの?」

 私の言葉を聞いた美女が目尻を吊り上げて、周囲の空気が突き刺さるような冷気を帯びた。


『そうよ。私は金魚だった。まぁるいガラスに閉じ込められて、鑑賞されるだけの存在だった!』

 装束がふわりと持ち上がり、中から鋭い針が飛んでくる。すべてユーエンとレイシンが叩き落した。


「何故、人を喰らう?」

 闘気というものなのか、迫力のある空気を纏ったレイシンの問いに美女が怯む。


『人には多少なりとも神力か魔力が宿っておる。喰らってその力を取り込む為であろう。男はその精気に、女は血肉に宿っておる』

 美女の替わりに簪が説明してくれた。だから男とは寝て、女は食べようとするのか。


『私は神の力を手に入れて、旦那様を探し出すのよ!』

『カズハ! 扇を空にかざせ!』

 簪の言葉を受けて空に広げた扇をかざすと、透明な青の光が丸いドームになって、私たちを包み込む。


 ガラスが割れる音がして、破片が上から降ってきた。きらきらと光を反射する破片に、レイシンに似た金髪に青い瞳の男が映っている。

「この人が、飼い主だったの?」

『違う! ……世話係は女だった。旦那様は部屋に来るたびに、私が綺麗だと言ってくれた!』


 涙をこらえて叫ぶ顔を見て、七百年前ならもう死んでいるとは口にできなかった。この人は、その旦那様が好きだったのだろう。毎日、金魚鉢の中で訪れるのを待っていた。まるで白月宮でリョウメイを待つ私と同じだと心が痛む。


 私も、いつかこの人のように狂ってしまうのだろうか。リョウメイを待ち続けて、寂しくて悲しくて、人を食べてでも力が欲しいと。


 ガラスの破片が降り注ぐ。輝く欠片が映すのは、きっとこの人の思い出。きりきりと胸が痛む。


『カズハ!』

 簪の呼びかけで我に返った。そうだ。憐れんでいる場合じゃない。


「悪いけど、私は外に出る! 貴女に食べられるのはお断りよ! ……神の加護を!」

 セイランに習った加護の術で青い光のドームを分割するように扇で斬るとユーエンとレイシン、そして私の体が青い光に包まれる。


「弱点は?」

『水が無くなれば、力を失うであろう』

「水なんてないわよ?」

『見えておらぬか。あの女は小さな水の粒に包まれておる』


「それだけわかれば十分だ!」

 突然レイシンが女に向かって走り出した。三節棍を振り回すと、まるで氷を削るように空気が削れていく。女が針を飛ばしても青い光が焼いてしまう。


「何? 空気を削ってる?」

『冷えた水の粒同士が打撃によってぶつかり、衝撃で氷になって白く見えておる』

 削った空気は、黒い地面を濡らす水になる。


「行きます!」

 跳躍したユーエンは、双剣で空気を斬っていく。一瞬で氷になった空気がバラバラと砕け散って水になる。


 打撃と斬撃。二人の攻撃が、女の周囲の空気を減らしていくと、女が撃つ針の数が目に見えて減ってきた。


『まさか、私が負ける!?』

 女の怒りの形相がどこか寂しく思えた。


「……殺さなくて済む方法って、ない?」

 小声で簪に教えを乞う。人を食べてきた化け物は、殺してしまうのが正解なのだと頭では理解している。下手に助けても無駄だと理性が囁く。


 それでも私の感情は、憐れみと同情に揺り動かされる。


『その憐れみは、いつか自分や大事な者を殺すかもしれないと理解しておるか?』

「はっきり言って、わかってないと思う。でも、可哀想だって思っちゃったの」

 私の考えは甘い。今、助けてもきっと他の人を殺すだけ。


『……初代青月妃と同じ、甘い考えだな。いつかその代償を誰かが払うことになると肝に命じよ。その代償は自分ではなく、お前の子孫が払うのかもしれぬ』

 簪からは苦笑するような声が聞こえる。

「それでも、助けたいと思うの」


『よし。ならばカズハ、お前の力を使え。この場を浄化し、あの者が七百年蓄えた力をすべて奪い取れ』

 簪に導かれるままに、巫女舞を行う。ユーエンとレイシンが女のすぐ近くに迫る頃に浄化の結界が完成した。


「覚悟せよ!」

 レイシンの三節棍が繋がって、一本の棒へと変化した。棒の先からは槍のような鋭い刃が出る。女を刺し殺そうとしているのか。


「レイシン! 待って!」

 叫ぶとレイシンがぴたりと動きを止めた。信じられないという表情で私を見ている。

「カズハ様っ!?」

 ユーエンの制止の声を振り切り、私は女へと駆け寄って右手を伸ばす。


『何をするっ!?』

 女の周囲には、ゼリーのような感触の空気が取り巻いていた。構わず手を突っ込んで、赤い衣を掴む。


「その力を貰う!」

 叫ぶと同時に、手のひらから冷たい空気が体に流れ込んできた。これが力を奪うということなのか。


 体の中に嵐が吹き荒れている。激しい力の渦に負けないように私は歯を食いしばった。

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