第16話 主の為に

 血を吐いたカズハを抱き上げて運びながら、自分の失敗に目の前が暗くなった。黒月妃リンシャオは帝都からは遠い領地を持つ田舎貴族の娘。〝華蝶の簪〟を持つ者に危害を加えれば子々孫々まで呪われるという伝説を知らない可能性が高い。自分が平民よりも下の位に付けられたことを不快に思っていたのだろう。


 口づけてカズハの口の中に残る血を吸い出し、気道を確保する。血に残る独特の甘い味は遅効性のサンガイの毒だ。効いた直後にこの味も証拠も消えてしまうので、医術師が調べても胃の病による死で片づけられてしまう。


 服に隠した解毒薬を選んでかみ砕き、水と共にカズハの口に流し込む。


『飲むと胸が大きくなるの?』

 先程のカズハの言葉で気が付くべきだった。恐らくは装束の中に革袋を仕込んでいて、酒を飲むふりをしながら流し込んでいたのだろう。初めて見るカズハの楽し気な様子に気を取られ過ぎた。


 カズハが咳き込みながら、またどす黒い血を吐いた。同じ処置を繰り返しながら、左耳の飾りを外して床に叩きつける。


 砕け散った耳飾りは床に複雑な紋様を描いて行く。召喚の魔法陣は数瞬で完成した。

「お願いだ! 助けてくれ!」

 カズハを抱きしめながら、魔法陣に叫ぶ。


「何があった!?」

 魔法陣が黄色く輝き、白緑色の髪をたなびかせた宰相セイランが姿を見せた。セイランは隠しているが強大な魔力を持つ魔術師だ。先代の皇帝に望まれて宰相になった。


「サンガイの毒だ! 酒に混ぜられた!」

「毒をすべて吐かせる。体を押さえておけ」

 セイランに指示されるまま、カズハを背中から抱きしめるようにして上半身を倒し、顔を下に向かせる。


 セイランが呪文を詠唱すると指先に黄色の光が輝く。カズハの頭に指で図形を描くと、黄色の光がカズハの体を包み込んだ。


 カズハが咳き込んで、どす黒い血を吐き出した。床に広がる血だまりに、小さなカズハの血がすべて無くなってしまうのではないかという恐怖が全身を凍り付かせる。


 カズハの吐き出す血が止まるまで、長い長い時間に思えた。

「よし、全部吐ききったな。念の為に解毒薬を少し、あとは造血薬を飲ませよう」

 セイランの安堵の声で、恐怖の時間は終わりを告げた。


 指示された量の解毒薬と造血薬をかみ砕き、水と共にカズハに口移しで飲ませると、カズハの息も表情も落ち着いた。血に濡れた夜着を新しい物に替え、寝台へと寝かせる。


「ユーエン、カズハが気に入ったか?」

 腕を組み、壁に寄りかかって見ていたセイランが口を開いた。


「……あるじですから死なれると困ります」

 それだけのはずだ。この仕事を失いたくはない。……カズハと離れたくない。


「宰相室でお前がカズハを抱き止めた時、私は心底驚いた。命じなくてもお前は動いた。もしやと思って侍女にしたが当たりのようだな」

 楽し気なセイランの声に指摘されて初めて気が付いた。これまでの私は、すべてセイランに命令されなければ行動できなかったのに、カズハと共にいる時には命令がなくても動いている。


 何故と考えてもわからない。ただ、カズハが倒れそうになったのを見ていられなかった。涙を零す姿があまりにも寂しそうで放っておけなかった。


 動揺する心を抑えて、セイランに質問することにした。

「月妃の他に主を害する可能性のある者はいますか?」

「いる。最初に迎えに行く際に兵隊長に殺せと命じていたのは、青月妃イーミンの父、左大臣だ」

 カズハが〝華蝶の簪〟を持っていると知った左大臣は簪の偽物を作ってまで、娘に青月妃の位を与えるように要求した。左大臣一派は高位の官職を持つ貴族が多い。多数の貴族が死に、未だ混乱が続く中では宰相や他の貴族たちには逆らう術が無かった。


「左大臣のように〝華蝶の簪〟の伝説を知っていても信じていない者がいる。自分ではなく命じて他者に害させようとする者もいるだろう」

 セイランの言葉は重い。二度と失敗はできないと心に刻み込む。今回は運よくセイランに助けを求めることができたものの、次も間に合うという保証はない。


 セイランの魔法でも救えない病もある。先代皇帝が流行り病に倒れた時には、魔法が効かなかった。


「……寒……い……」

 布団の中のカズハから微かな声が聞こえた。

「大量に血を失った後は、寒いと感じるものだ。布団に入って温めてやれ」

 そう言ったセイランは、王宮に来る前には頻繁に見せていた意地の悪い笑顔を浮かべて姿を消した。


 昔のセイランは饒舌で明るい笑顔を常に見せていた。手紙や使者、先帝からの宰相の職への就任要請から逃げるように、各地を転々としていた。


 十年程前、突然王宮へ行くと言って宰相に就任した。私は専属の侍女のふりをするようにと命令をされ、侍女であり宰相の間諜になった。


 それ以来、セイランは別人のように曖昧な微笑みを浮かべるようになった。理由は全くわからない。


 震えるカズハの声が聞こえていても、裸で共寝をしていいのか盛大に迷う。これまで共寝した際にはしっかりと夜着を重ねていた。

 凍える人を温めるのは人肌がいいとは知識として知っているだけで、実行したことはない。下穿きを脱いで布団の中に潜り込み、着せたばかりの夜着の帯を解いて素肌を合わせる。


 柔らかな体を抱きしめると、ふわりと甘い果実のような匂いに包まれる。最初に抱き止めた時から、この匂いが気になっていた。石けんや香料の匂いとは違う。もっと、体の奥底の何かを掴まれるような匂い。


 抱きしめているとカズハの体の震えが止まり表情も穏やかになった。安堵と共に腹の底から突き上げてくる衝動を堪えながら目を閉じた。

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