第15話 黒月妃の御酒
ある宴の夜、私の席に近づいてきたのはとても美しい女性だった。藤色の長い髪はゆるやかに波打っていて輝いている。紫色から黒色へと襟元や袖口がグラデーションになるように重ねられた儒裙は、相当な重みがある筈なのに体重を感じさせない妖精のように優雅に歩く。華やかな帯が締められた腰は細い。
隣りに座っていたユーエンがさっと立ち上がって女性に同行していた侍女と静かに言葉を交わす。私は後宮のしきたりに従って、扇で顔を隠して待つ。普段慣れない仕草は、本当にめんどくさい。
「黒月妃のリンシャオ様です。ご挨拶をされたいと……」
ユーエンの囁きに心が躍った。どうするかと聞かれる前に扇を降ろして承諾し、挨拶を受けた。
「白月妃様、御酒はいかがですか?」
声も優しく美しい。微笑むと少し垂れた目が柔らかく下がって優しい表情になる。美人だ。物凄く美人だ。きっと良い匂いがするだろう。抱き着きたい。
「あ……は、はい」
我ながら間抜けな声になってしまった。内心の焦りが顔を赤くする。
「わたくしの実家の領地で作られている御酒です。甘くて飲みやすいので、貴女にもお勧めしたいと思いましたの」
リンシャオは微笑みながら、侍女に持たせていた酒瓶を私に見せた。優雅な仕草で取り出した白い盃を卓に置き、淡い紫色の御酒を注ぐ。
「どうぞ」
微笑みながら跪き、両手で支えた白い盃を私に差し出す姿は幻想的とも言える美しさ。そのまま絵になりそうで、どきどきする。
「あ、ありがとうございます」
「……カズハ様」
手を伸ばし掛けた所でユーエンに袖を軽く引かれて、他の人間からの飲食物を安易に口にしてはいけないと散々注意されていたことを思い出す。宴で出てくる物も全部ユーエンが検査してからと言われていた。
「まあ。そうですわね。わたくしったら、失礼を致しました」
微笑むリンシャオが、盃に口を付けて半分を飲む。優雅な手つきで取り出した懐紙で飲み口を拭き、口を付けていない方を私に向けて盃を差し出した。
同じ盃で見ず知らずの他人の残りを飲むことに心の中では不快感しかないけれど、自ら毒見をしてまで勧めてくれるのだから、飲まない選択肢はない。美人だし。
「い、いただきます」
そろそろと口にしたお酒は、甘くて爽やかな味だった。美味しい。物凄く美味しい。
「とっても美味しいです!」
後味もさっぱりしていて飲みやすい。
「ユズとはちみつ、薬草と花を原料にしていますの。肌が白く美しくなるという話です」
内側から光を発しているような透明感のある白肌のリンシャオの言葉には説得力がある。
「花ですか?」
「この紫色が花の色ですの。スミレやアザミ、薔薇も使います。わたくしも領地にいる時には、花を摘んでお手伝いしておりますのよ」
「素敵なお話ですね。……あ、よろしければ隣に座りませんか?」
いつまでも跪かせているのは気が引ける。
「よろしいのですか?」
楚々とした仕草で私の隣にリンシャオが腰かけると、イメージにぴったりな甘やかな花の匂いがふわりと香る。
椅子の前に小さな卓が置かれ、お酒のおつまみになりそうな料理をユーエンが並べてくれた。
美しいリンシャオの話は尽きることなく面白い。貴族で流行りの服や髪型の話、お菓子や果物の話、女子力の高さに圧倒される。
お互いの盃にお酒を注ぎ合ううちに気が付けば二人で一瓶を飲み干していて、完全に酔ってしまった私たちは朝まで続く宴の途中で退出した。
「カズハ様、飲み過ぎですよ」
宴からの帰り道、華舟を操作するユーエンが苦笑する。私はとにかく気分が良くて、鼻歌まで出てしまう。
「んー。一升瓶くらいの大きさだったから、その半分? あ、この世界のお酒って、飲むと胸が大きくなるの?」
細身のリンシャオの胸が、別れ際にはたぷんと音を立てて揺れたような気がした。
「何を馬鹿なことをおっしゃっているのです? 自分の胸に手を当てて考えてみてください」
「うわ、酷ーい。でも、ほら、私、脱いだら結構凄いのよ!」
これはユーエンに証明しなければ。そんな思いで私は儒裙の襟元に手を掛ける。
「や、や、や、やめて下さいっ! 酔い覚ましに池に落としますよっ!」
「えー。別にいいじゃない。女同士だし、私の下着姿なんて散々見てるんだし」
襟を緩めても、ちゃんと下着は着けているのにユーエンの耳が赤い。いつも私が下着姿になると、ユーエンは動揺して落ち着かない。
「ん? そういえばユーエンの下着姿って見たことないかも。……じー」
「な、な、な、なんですか、その視線は?」
怯むユーエンの耳だけでなく、頬までほんのり赤くなってきて色っぽい。
「女同士なんだから、恥ずかしくないわよ? 帰ったら、一緒にお風呂入る?」
「いえ、そのっ、あのっ! きょ、今日は、あの、つ、都合が……そうです、今日はダメです」
動揺するユーエンの表情が面白い。ちょっと意地悪を言い過ぎたかもしれない。
「じゃあ、また今度ね」
私はユーエンと無理矢理約束を交わして満足した。
白月宮に帰り着いてお風呂から上がっても、私の心地よい酔いは続いていた。
窓際に座って空を眺める。目を閉じれば、賑やかな王宮の音楽が聞こえてくる。これまでの宴では、誰も私に声を掛けてくれなかった。リンシャオはとても美人で優しい。少し年上のあの人なら、もっと仲良くできるかもしれない。
夜空に浮かぶ赤い月と緑の月、そして小さな白い月を眺めていると、突然月が歪んで視界が暗くなった。
「え?」
胃がきりきりと締めあげられたように痛む。喉の奥から、熱いものがこみ上げる。まさか、吐く?
床に吐きたくないと手で押さえながら、お手洗いに駆け込んで口から出した。
「嘘……」
手のひらにはどす黒い血が広がっていて、喉が焼けるように熱い。続けて上がってきた血を咳き込みながら吐き出す。
「カズハ!?」
ユーエンの叫び声と同時に、私の意識が途切れた。
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