煙に巻かれて恋をする

那須野 風乱

本文

初恋はカルピスだとかレモンだとか、少なくとも私はそうでは無かったと思う。私の初恋は、煙草といったところだろう。そう、比喩的にも物理的にも。

私の初恋の相手は、隠れ不良な同級生だった。名前は、緑川翔太。整った顔立ちに華奢な体つきだが、教室では寝てばかりで目立たない青年。つまり、世に言う陰キャという奴。そんな彼に私が恋したのが、多分高校の時。路地裏で、他校の生徒と殴り合いの喧嘩をしている彼を見た時のこと。翔太君は、体育の成績は悪くないが筋力だったら女子よりも劣る。そんな彼が、ガタイの良い数人の生徒を一人で倒していく。別に鈍器を使っていた訳では無く、手頃な木の枝を片手に、身軽に攻撃を避け隙を見て腹に一撃。それだけの動作だった。取り巻きの生徒達が逃げていくと彼は徐にバックの中から煙草を取り出し、火をつけたところで初めて私の方を見た。

「あれ、君は確か同級生の…。見られちゃったかぁ…」

「あ、えっと…三組の小島真理、です。帰り道に、翔太君がこっちに来るのが見えて…こっちって、行き止まりだったよなって思ってつい…」

そう言えば、翔太君はへぇとだけ言って、有害物質を吸い込む。その犯罪行為を悪びれる様子も無かったが、私も何故だかそれを問い詰める気にはならなかった。寧ろ彼のその動きに魅力すら感じた。

「…煙草、気になるの?」

「へっ?」

「いや、ずっと見てるから…今更犯罪だとかは思わないよ。それ言い出したら元凶は先輩だから、先輩も否定することになるし」

ふぅーと、翔太君が煙を吐き出し、もわもわと、煙が私の周りまで来る。煙草独特の、少し苦しく感じる臭いがする。私は、クラスでは目立たない彼が、普段からは考えられない素行の悪さを見せていることに驚きはしなかった。しかし、彼の端麗な容姿も極まって、その風景に対してカッコイイと、確かにそう胸をときめかせてしまった。

「…その煙草、一本頂戴よ。そうしたら、私は何も言わないから」

「え、本気で言ってるの?それしたら同じ犯罪者だけど」

「バレなきゃ犯罪じゃ無いのよ」

そういうや否や、私は翔太君の咥えていた煙草を奪い取り、口元に近づけた。別に間接キスをしようとか企んだ訳じゃない。何故だか、無性にそれが欲しくなっただけだ。大きく吸い込んで、そして咳き込む。

「あぁもう、そんなに吸い込むから。ほら、ゆっくり深呼吸するみたいに」

翔太君から言われて、もう一度吸い込む。バニラの様な、予想外にも甘めの味が広がる。甘く華やかな、正にそう表現されそうな味だ。

「その煙草はね、ピースって言うんだ。ちょっと値段はお高いけど、最高級バージニア葉とかだったかな、それを使ってる。でも初心者にはあまり向いていないんじゃないかなぁ…」

だって有害物質がたーんと入っているからね、と彼はにやりと口角を上げた。あぁ、彼はそんな表情もするのか。ずるい、かっこいい。

「…いいね、ピース。気に入った、かも」

「…やめときな、肺を悪くする。それと、こいつの名前はピースだけど、名称としてはショッピって呼ぶんだ。長いピースと短いピースがあって、これは後者だから。ショートピース、略してショッピ」

「ショッピ…うん、やっぱり気に入ったわ」

「今のだけで?真理ちゃんは不思議な子だね…」

いや、こっちのセリフだわと言いたくなった。一人でこんな悪道に進んでいった翔太君のことも私には到底理解出来ない。同じクラスにいた彼のことを、私は何も理解していなかった。彼の上辺だけしか見ていなかったのだと私はこの時実感した。

その内、私と翔太君はよく関わるようになった。私は翔太君と同じ悪道へ走るようになり、殴り合いの喧嘩にはエアガンで援助をして、不良コンビとして路地裏で名を上げていった。当然他校生と喧嘩をする度学校からは叱責が来たが、不思議と煙草のことはバレなかった。親からの叱責も構わずに、二人で夜遅くまで色々な所へ出掛けたりもした。勿論、お供にはショッピを持って。そうだ、確かその時に横浜まで出掛けて、それであの大きな観覧車の中で、私は彼に告白したんだ。不良だったけれども、告白の仕方は正統派だったと今更思う。翔太君は驚いた顔をして、そしてただ頷き笑ったんだ。不良としてタッグを組んで二年、私達は恋人へとランクアップしたのだ。

しかし、そこからが彼の不幸への道のりだった。三年生中盤、突然、彼は校長先生の元へ呼び出しをされた。他校生からの告げ口で、遂に煙草の件がばれたのだ。私よりも吸う回数が多かった分、目をつけられやすかったのだろう。

彼の内心は一気に落ち、大学入試は困難になった。そこそこ成績が取れていたが、結局翔太君は大学を諦めるしかなかった。そんな彼を横目に、私は第一志望の大学へ合格した。そうして私が学校の近くへ引越した時を境に、彼との連絡は全て途絶えた。

数年後、私は大学を卒業し、彼の居る場所へ向かった。彼は高校卒業後、小さな株式会社に就職したらしい。しかし、行ってみてその会社は、とうの昔に倒産していたと地元の人の話で知った。何でも、彼の就いたこの会社は俗に言うブラック企業という奴で、有給無しでシフトを回していたらしい。それに反感を持った彼を含む下級構成員が社長に反発。それがマスメディアに話題にされたが、社長は中々頑固で、全て嘘だ、言い掛かりだとバックれたらしい。そんな中で会社を倒産に追い込んだ決定的な出来事が、五日間寝ずに働き詰めた翔太君の過労死だった。この事実はマスメディアを更に燃え上がらせ、社長は遂に倒産を余儀なくされたと…。

その話を聞いた私は、卒倒しそうになった。長年会えなかった恋人は、死んでしまっていた。その事実だけが、私の心を蝕んでいた。いや、早まるな。もしかしたら嘘かもしれない。そうありもしない期待をして、私はネット検索の欄に、××会社 倒産 何故 と打ち込んだ。そうすれば、とあるネットニュースがヒットする。

『今日未明、××会社に務める緑川翔太さん(22) が過労により死亡。緑川さんの残した手記には、会社の過激なシフトや社内での暴力行為についてのメモが残されていた。緑川さんの場合は、始発で出勤し、昼時以外の休憩無しで仕事をして終電で帰るという生活をしていたようで、栄養失調や睡眠不足も死因の一つとなっているようだ。今回の事件を受け、警察は××会社の社長を労働法に違反しているとして逮捕。社長は、容疑を否認している様子だ。また、××会社の社員達はこの事件を期に殆どが退職、会社は倒産を余儀なくされたようだ』

その記事を見て、私は愕然とした。彼が始発ー終電で勤務をしていたとすれば、いつも夜中に電話をしてくれたのは、あれは唯一の睡眠時間を削ってまでかけていたという事だ。私がこの会社の社長を恨むことはお門違いだ。だって、私も彼を殺してしまった要因なのだから…。

彼の死を受けてから、私は何をする気も無くなり実家に帰った。職を探すことも億劫になり、ただ何となく自室で日々を送る。彼と私が愛煙していたショッピも、今では私の部屋で埃を被ってしまっている。

「ねぇ真理、貴方いつまでそうしているの?」

心配して母は声をかけてくれたが、私はただほっといてとだけ返した。そうすれば母は、そっとドアの前にご飯だけ置いて下の階へ降りていく。もう何でもいい、生きていても死んでいても変わらない。彼の居ない世界、彼を殺してしまった世界には何の意味も見出せない。私はただ布団の中で、小さくなって寝るだけで日々を過ごす。毎日の電話で、どうして彼の疲労に気が付けなかったのだろう。今思えば、いつも生気を感じない、空元気な声だったじゃないか。紛れもない、彼を殺したのは私なんだ。

「おい真理、聞こえているのか」

引きこもり始めてから何日が経っただろうか、初めて父が私の部屋を訪れた。

「…お父さん」

「真理、お前が気に病むのも分かる。だけどな、きっと彼はお前に殺されたなんて思ってないさ」

「…っ!お父さんに何が分かるの!!人の気も知らないで勝手言わないで!!…もうほっといて」

久しぶりに大きな声を出した。そう言えば、喉がカラカラだ。じわりと喉が痛み始めた。

「…真理、お前の気持ちは分からない。だけど、ケジメはつけるべきだと思う。一度、彼のお墓に行ってきなさい」

「…彼に合わせる顔なんて、無い」

「いや、行きなさい。彼が死んでから、お前は一度も彼に会いに行ってないだろう。誰だって、そう簡単に愛した人間を嫌いにはならない。お前は彼に会って、それでもう一度立ち直るべきだ」

父はそう言って、階段を降りていった。もう一度、会うべき…。

「…やっぱり私、どんなに酷い女でももう一度だけでも、翔太君に会いたい」

私は布団から這い出て、カーテンを開ける。丁度太陽が登ってきている時間だったようで、久しぶりの朝日が神々しくて、眩しい。

「…よし」

会いに行こう、日が沈む前に。翔太君の元へ。


横浜のあの日着ていた服を着て、小さなショルダーバッグを持つ。勿論中には、ショッピとライターも忘れない。スニーカーを履いて、玄関のドアを開ければ変わらぬ街並みが出迎えてくれた。翔太君のお墓は、多分彼の実家の近くの墓地にある。彼の実家は、ここから電車で一駅超えたところにある。通り道で、花を買った。スカビオサという花をベースにした、小さな花束。電車に乗れば、高校生のカップルらしき男女が前の席に座っているのが見えた。彼女が彼氏の肩を借りて、すやすやと寝てしまっている。全てが懐かしかった。窓の外に見える街並みは、彼を思い出させて思わず涙が出そうになる。慌ててハンカチで目元を拭い、降りるべき駅で降りた。降りてからは、ひたすら一本道を歩く。周りには田んぼしかないから、来てもつまらないよと笑った彼を思い出す。じりじりと照りつける日が、田んぼの水面をキラキラと輝かせていた。

墓地に着いた。そこを管理する住職に尋ね、彼のお墓まで案内される。〃緑川家之墓〃と書かれた墓石は、彼の死をひしひしと実感させた。私はそっと花束を添え、線香に火をつけ線香置きに置く。そして持参していたショッピを二本取り出し、一本は彼の元に、もう一本は自らが咥えた。懐かしい、甘いバニラの味。変わらない彼との、思い出の味。

「…久しぶりに吸うけど、やっぱり変わらない素敵な味だね。だけどやっぱり、翔太君と一緒に吸うショッピが一番美味しかったかな。…ごめんね翔太君、私がちゃんと気が付いていれば良かったのに。こんなこと言える立場じゃないけど、死なないで、生きて欲しかった…。過労死って何さ、頑張りすぎたよ馬鹿…。少しくらい、彼女に弱音吐いたって良かったのに…!」

ショッピの煙が、酷く懐かしい。口一杯に広がる甘い味は、彼も私も好んだあの味で間違いなくて。でも、隣に彼は居ない。私が、殺してしまったから。思わず涙が頬を伝う。泣いて叫んで、それで彼が帰ってくるならどんなに良かっただろう。おとぎ話のように、涙が落ちた瞬間に、目が覚めて欲しい。地面を濡らしていく。その上に灰が落ちていく。それでも、それでも私はひとりぼっちだ。彼は、帰ってこないー!

「あれ、お前さんもしかして…!」

ふと、頭上から声がした。しゃがみこんでいた私は、涙でぐちゃぐちゃになった顔も構わずにそのまま上を見上げた。

「翔太、君…」

思わずそう呟いた。それほどまでに、目の前にいる叔父様は彼と同じ雰囲気を持っていた。唯一違うのは、顔の皺の多さと、煙草の臭いがしないこと。

「もしかしてあんた、小島真理ちゃんか?翔太の恋人の」

「え、あ…はい、私は小島真理です」

「そうか、あんたが…初めまして、私は緑川翔太の父、緑川悠斗です」


あの後、悠斗さんは泣きじゃくる私をなだめ、そのまま悠斗さんの家に連れていってくれた。話によれば、彼の手記には続きがあったらしい。何でも、『 自分が死んだ後、一人の女の子がきっとショッピを吸いながら墓参りをする。その子は自分の恋人、小島真理だ。見つけたら彼女に、自分の棚の上にある、木箱を渡して欲しい』と、私の写真と共に書かれていたそうで。悠斗さんから渡され、私はその箱をそっと開いた。中には、初めてデートした時の写真、一緒に行った映画のチケット、お揃いで買ったストラップ…。私と彼の思い出の全てが詰まっていた。その中でも、目を引くものがあった。

「…ショッピじゃない。これは…ロングピース?」

白色の、いつも吸うショッピよりも少し長い箱。そっと開けてみれば、中には煙草は無く、何やら紙が入っていた。二つ折りにされたそれを開いてみれば、それは手紙だった。

『 真理ちゃん、これを読んでるってことは僕は死んでしまったんだね。分かってたんだ、きっと耐えられないなって。だから、僕はこれを残すよ。僕の意思を君に伝える為に。まず前提として、今回の事件は完全に僕の独断だ。あの会社は、知ってるとは思うけど完全にブラック企業だ。でも、いくら僕らが嘆こうが、一度入ったら退社することは認められない。いつも死んだ表情で働く従業員達に、僕は恐怖を感じたよ。それなら、どうすれば社長を止められるか。団結して講義もしたけど、彼は何処吹く風だった。きっと、僕達を奴隷か何かかと思っている、そういう人だった。…僕はね、この時、死をもって彼に実感させようと思いついたんだ。普通ならそんな簡単に命を飛ばしたりしないけど、実は僕は、煙草によって末期の肺がんにかかっていた。余命は宣告されてないけど、長くはなかったんだ。真理ちゃんに言おうか迷ったけれど、大学に通う君に余計な心配をかけさせたくなかったんだ、ごめんね。そう、つまり今回の事件の主犯は、僕だ。だから君は、関係してはいない。きっと君のことだから、気が付けなかったと自責に駆られてしまう。けれど、この計画を伝えればきっと君は僕を止める。そして、がんの事も気が付いてしまう…。僕はね、本当に君の事が大好きだったんだ。変な形で出会ったけれど、真理ちゃんは本当に素直で、僕には勿体ないくらいのいい子だった。だから、君には幸せに生きて欲しいんだよ。僕のことを気にせず、前向きに生きて欲しい。この計画を立てた時、やっぱり死ぬのは怖かった。けれど、毎日真理ちゃんと話せたこと、それだけでもう充分。この世に未練は無かったよ。きっと、君は僕に会いに来て、この手紙を読んでくれるって信じてた。僕は先に行くけど、真理ちゃんは前向きに生きて、抗って。そして君が人生を満足に終わらせた時、また君と二人、ショッピを吸って、無駄話をしたい。本当は、生きている内に言いたかったけれど、どうやら時間も無いみたい。だから僕は、ここに記すよ。真理ちゃんの事が世界で一番大好きです。願わくば、貴方に幸せが訪れるように』

それは彼の、遺書だ。私にだけ宛てた、最後のラブレター。

「お見通しだね。翔太君、そんなの…」

そんなの勿論、私も大好きだったに決まってる。そう言いたかったけれど、涙が止まらなくて、息苦しくなって…声に出来なかった。翔太君、翔太君ー。君は何故、死ななくてはいけなかったの。私と共に、生きてはくれないの。どうしても涙が止まらない。悠斗さんは、私が落ち着くまで、ただじっと傍にいてくれた。


「すみません、また来ますね」

「えぇ、きっと翔太も喜びます」

私が落ち着いた時、辺りは既に暗くなっていた。あの後、悠斗さんは私にぽつりぽつりと話してくれた。

「息子は、がんだと診断された時、まず真っ先に、あなたと最後まで居れないことを嘆きました。あの子が人の為にあんなに号泣したのは、初めてでした。きっと、息子は最後まで、貴方と話せて幸せだったでしょう。…それと、息子から、預かったものがあります。あなたに宛に、必ずと、真っ直ぐな瞳でこれを託したんです」

そうして彼が渡してくれたのは、小さな白色の箱だった。開けてみると、そこには小さな指輪が収まっていた。ー結婚指輪だった。

「きっと息子は、本当に貴方と生涯を共にしたかったんです。持っててやって下さい」

そう言って深々と頭を下げた悠斗さんの姿は、まだ脳裏に焼き付いている。今、その指輪は私の薬指に収まり、月明かりを受けキラキラと輝いている。

「…翔太君、私ね、もっと前向きに生きてみようと思うんだ」

そうだ、週に一度は君に会いに来よう。そして、強く生きてるよって言うんだ。いつか君にあった時、胸を張って人生を語れるように。私は徐にショッピを取り出し、火をつけた。すぅーと一気に吸いすぎて、咳き込む。

『 あぁもう、そんなに吸い込むから』

そう言って、彼が笑ったような、そんな気がした。ショッピから立ち込めた煙は、空へ空へと上がっていった。

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煙に巻かれて恋をする 那須野 風乱 @sichimi_suzumiya

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