第43話「精悍」

 かしゃりと小さな音を立てて碁笥の黒石を掴み、右手の人差し指と中指ではさんで、着手。

 美咲の石音は、大きすぎることも小さすぎることもなく、いたって常識的なヴォリウムだと泰は思う。


 黒の初手を受け、泰はふふっとほんのわずかに頬を緩める。

 五の五。空き隅の着手としては相当に珍しい部類であるが、美咲はこの手を愛用している。学生時代の大会では、泰の知る限り美咲は毎試合五の五を用いていた。AI(人工知能)流の碁が世間一般に広まり、これまで以上に実利志向の風潮が高まる現代において、隅の守りに関して甘すぎる五の五はプロ棋戦ではまず見られず、奇策や趣向の部類である。


 しかし、時流に乗らない打ち方が悪手かというとさにあらず、美咲はこの戦術で数多あまたの強敵を打ち破ってきた。既存の定石の習得のみならず、自身の打ち碁をつまびらかに分析し、どのように打てば優勢を確立できるか、あるいは形勢を損じやすいのかといった自分なりのパターンを研究する努力を惜しまなかったことを、泰はむろん知っている。

 見た目には使い古されており光沢を失っている碁石であるが、五の五に打たれたそれは、泰の眼にはたいそう輝かしく感じられた。まるで、美咲がこれまで積み重ねてきた真心の結晶のようだと泰は思う。


 深呼吸をして、泰は碁笥から白石を掴む。

 美咲がしたように右手の人差し指と中指にはさみ、そのまま前方に勢いよく腕を伸ばし、(泰から見て)右上の星に着手。意気衝天いきしょうてんたる石音が、清潔な室内に響きわたる。

 

 碁石を打つとき、泰はいつもはっきりと大きな音を立てる。

 気負いすぎて生じる力みではなく、擬勢ぎせいを張っているわけでもない。純然たる正直さを携え一局を心ゆくまで楽しむことを考えたとき、泰の石音はおのずと高くなる。

 

 泰の石音を受け取り、美咲はわずかに顔を緩めた。久しぶりの手合わせが決まってからの数分間、相手への期待感に胸をふくらませていたのはむろん泰だけではない。

 飄々ひょうひょうとした風付きからは想像し難いような、雄々おおしくて凛とした響きを湛える泰の石音に、美咲は初めて対局したときから憧憬しょうけいの念を抱いていた。


 泰を一瞥すると、昔と変わらず端正ながらも、その顔つきはいくらかの精悍せいかんさを帯びてきたような印象を美咲は受けた。

 気さくで、かつほどよく饒舌ながらも、自身の努力や気苦労を問わず語りに話す泰ではないので、社会科の教員としてそれなりに忙しくしているという以上の内容を美咲が知るはずもなかったが、社会にまれ、種々の経験に感情を揺らめかせながらも自分らしさを保たんとして奮闘しているのであろうと、美咲は泰の表情から感じ取った。


 三手目、やはり五の五に着手。

 対する泰の動きは速く、残る一隅を高目たかもくに打った。趣向と呼ぶほどではないものの、オーソドックスな星や小目こもくと比べると打たれる頻度は低く、おそらく黒の配石を意識して中央寄りの着手にしたのであろうと美咲は推測する。


「ほう、美咲ちゃんが黒持ってるよ。珍しいなぁ」

 常連客らしき老人のつぶやきを皮切りにして、美咲と泰の対局にギャラリーが増えてきた。

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