第40話「模倣」

 名前を耳にしても顔が浮かばなかったのは、思考停止していたわけではなく、直之と話したその日に現実に現れるということが、泰にとってあまりにも非現実的な架空の物語のように感じられたからである。


「はーい」

 受付の奥の台所から清潔な声が聞こえ、蛇口の水が止まった。


「泰くん……」

 ハンドタオルで手を拭きながら現れた美咲は、驚きと困惑を同居させたような表情を浮かべている。

「おっす、久しぶり」

 左手をあげ、泰は先ほど亭主から受け取った笑顔を真似て微笑む。

 まるで、自分が今日この時間にやって来ることを事前に伝えていたかのような、気軽な口調で。他人の悪しき部分は徹底的に反面教師とし、反対に心惹かれる部分は積極的な模倣により自身の心に取り込むことが人生を豊かなものとするために大切だと泰は思っている。


「久しぶり。元気そうだね」

 少しのをおいて、美咲が莞爾かんじと笑って答えた。


 一度も染めたことのない、濡れ羽色のようなショートボブヘア。美咲には本当にこの髪型が似合いだなと、泰はしみじみと思う。誠実な直之がかつて愛した、清潔な女性。

 ミントブルーのブラウスに白のテーパードパンツというファッションも、学生時代に見慣れたものだった。爽やかで上品なミントブルーは、美咲という人間を象徴する色だと、かつて直之が言っていた。足元がスニーカーではなくローヒールパンプスであることが、昔といまの違いを代弁しているように見えた。


「まあ、ぼちぼち。ちょっと暇してたから、たまには囲碁でも打とうかと思って寄ってみた」

 元気そうだね、のお返しは軽率かもしれないと考え、自身の状況報告のみをした。


「おや、知り合いかい?」

 亭主が、泰と美咲の両方に向けて訊いた。

「うん。岡島泰くん。大学の囲碁部で知り合ってね、よく大会とか一緒に出てたよね」

 懐かしさのある、快活な声と表情。その快活さは健在であるものの、いくらか清冽せいれつさを帯びたような気がすると泰は感じた。

 泰が最後に美咲に会ったのは、二年前に起きた、例の一件の少し前。直之との破局――それも、この上ない義憤ぎふんを覚えながら――が、美咲にとってどれほど骨身にこたえただろう。直之しか知らない、当時の美咲の心境や表情を泰はほんの少しだけ想像するも、すぐに現実に立ち返った。


「ほう、そうかい。美咲ちゃんの友達なら、強いのも納得だ」

「いえいえ、とんでもない」

 想定の範囲内であった亭主の褒め言葉に、泰は爽やかな笑みをつくり謙遜する。


「泰くん、美咲ちゃんと打ってみてはどうかね?」

「えっ?」


 その提案は、亭主が美咲を呼んだ時点で容易に想定できるものであったはずだが、泰の頭からはすっぽりと抜けていた。

 美咲の声を聞いた時点で、現実とは思い難い現状を受け入れるところまではどうにか達成したものの、その先にまで思考を働かせる余裕が、ふだん何事においても器用に立ち回る泰でさえなかったのである。


「打とっか」

 泰が美咲のほうを見ると、対照的に、予期していたという風な微笑を湛えていた。

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