第39話「笑顔」

「いらっしゃい」

 『寄り道』の扉を開けると、右手の受付に座っていた亭主と思しき老人がにっかりと笑って挨拶をした。

「どうも」

 わざとらしくない程度に口角を持ち上げ、泰は答える。

「ここは初めてかい?」

「はい」

「棋力はどのくらいかな?」

「そうですね……五・六段くらいかと」


 碁会所らしい紋切り型のやり取りをしながら、泰は亭主について二つの印象を抱いた。

 一つは、ずいぶんと不健康的だなという失礼極まりない印象である。浅黒い肌は健康的な日焼けというよりくすんでおり、タバコやアルコールの過剰摂取によるものだろうと、これという医学的な知識のない泰でさえも推測できた。頬がこけるほど瘦せているので、きっとまともな食生活を送っていないのだろうと泰は思う。


 もう一つは、この亭主はおそらく善人に違いないという、対極ともいえる印象だ。

 初めての碁会所に入って目が合ったとき、たいていは異様なものや場違いなものでも見るような、いぶかしげな目を向けられる。たとえ一瞬で、すぐに接客用の目つきにシフトするとしても、それを見逃すほど愚鈍な泰ではない。

 『寄り道』の亭主は、しかし泰を見るやいなや両眼を弛緩させ、からりと爽やかな笑みを見せた。まるで、泰が今日この時間にやって来ることをあらかじめ承知していたかのような、緩やかな目と清らかな笑顔。初対面でこんなにも誠実な表情を見せる人がこれまでの人生のなかでどれだけいただろうか泰は考える。同時に、どこかで見覚えのある笑顔のような気もした。


「おぉ、そりゃたいしたもんだ。今日は低段や級のお客さんが多くてねぇ……君の相手になる人はいるかな。小西さんと吉川さんは対局中か」

 狭い入口のわりに広めの店内を見渡しながら、亭主が対局相手を物色する。


 五、六段という自己申告に、泰は少々の遠慮があった。

 たまの気分転換にネット碁を打つときは、四・五段の棋力で安定している。泰が利用しているネット碁サイトは段位が厳しめであり、おそらく巷の碁会所程度であればプラス二段ほどの申告でちょうどよいというのが、そのサイトの段位における一般的な見解だった。

 それを踏まえれば、六・七段くらいという申告が妥当なところかもしれないが、ここ二年ほどはそもそもネット碁すら打っておらずブランクがあるのと、あまり高段で申告すると置碁おきご(棋力が下の相手にハンディを与える碁)ばかりになる可能性が高く――今日もその雰囲気が濃厚であるが――、それもつまらないと思ったのである。多くの打ち手がおそらくそうであるように、泰にとっても互先(ハンディなしの碁)のほうが熱くなれた。


「そうだ。おーい! 美咲ちゃん」

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