第38話「石音」

 そもそも碁会所という場所が、泰は当時から好きではなかった。

 店内が往々にしてタバコ臭く不健康的であるとか、客層の九割が暇を持て余していそうな老人で目の保養にならないとか、あるいは、インターネットサイトで無料で対局できるこのご時世に千円も払って左様な老人たちと打つことに名状しがたい虚しさを覚えることがあるとか、そういうマイナスファクターはまだ目をつぶれた。

 泰が許容し難かったのは、彼らのほとんどが微塵みじんの上達意欲も向上心も持ち合わせない様子で、ただただ時間を浪費しているようにしか感じられなかったからである。毎度毎度、似たような面子めんつで似たような布石を打ち、似たような定石選択をして似たような俗筋ぞくすじを打ち合い、勝った負けたという結果だけに一喜一憂して次の対局へとシフトする呉下ごか阿蒙あもうのごとき人々。

 “先天的労働者”のなれの果てを学生時代にすでに幾度も目にしていたなと、泰はスマートフォンで時刻を確認しながら半笑いを浮かべた。


 そして、なにより泰が辟易したのは、礼儀や礼節をわきまえていない人間の多さだった。そうした愚かしい老人たちのみならず、それなりに腕の立つ者ですらのりえる場面に遭遇したのは一度や二度ではなかった。

 考えているときに碁笥ごけに手を突っ込み、碁石をかき回して品性に乏しい音を立てる輩、投了時に「負けました」や「ありません」などの言葉を述べず、「これはダメだな」などと、相手の顔も見ず独り言のようにつぶやきながら盤面を崩す輩――当人にとってはそれが投了の合図のつもりなのだろう――、勝ったからといってこちらの着手を必要以上に否定する輩、感想戦を提案してもろくに応じずにさっさと次の対局を始める輩、挙句の果てには、観戦中に対局に口を出してくる輩もいた。

 泰はその都度、持ち前の人当たりのよさや当たり障りのなさを発揮して適当に流していたが、内心では絶望していた。単に碁会所に関してのみならず、大人という存在の汚さや醜さを目の当たりにしたことに対する絶望だった。数年後に社会に出れば、こうした無礼や怠惰や理不尽などに日常的に直面するのだろうかと、泰は成人すらしていない時期にすでに察していたのである。


 大学卒業以降は、碁会所を訪れたことは片手で数えられるほどしかない。

 むろん泰ひとりでは行くはずもなく、久しぶりに会った直之や美咲から碁を打ちたいというリクエストがあった際に仕方なく行くというケースしかなかった。


「打つか、たまには」


 年季の入った立て看板を見つめ、泰は軽いため息をひとつ落としつぶやく。

 先ほど、夕空を仰ぎながら抱いた粗忽への自戒として、初めて自発的に碁会所に足を運ぶことを決めた。

 いや、実のところそれは建て前で、本当は囲碁を打ちたいと泰は思った。昼間、直之と過ごし、彼がいまでも誠実に囲碁に向き合っていることを確かめて、ほっとすると同時に懐かしさを覚えた。書店で友人を待ちながら、気になった棋書を丹念に読む直之、『アーベル』でNHK杯の出場棋士を検索する直之、美咲の棋風について語る直之。ひとつひとつ丁寧に思い出しながら、自分は単に付き合いのみで囲碁を続けてきたわけではなく、間違いなく自らの意思でそうしてきたのだと泰は確かめる。


 狭くて薄暗い階段を、泰はゆっくりと上る。途中でガールズバーを一瞥いちべつすると、男性スタッフが開店準備に勤しんでいた。


 三階へ上がると、扉上部のガラス窓にプリントされた“囲碁 寄り道”の文字が目に入る。扉越しに、泰はかつて聞き慣れていた音を拾った。

 パチッ、パチッと、盤上に碁石を打つ音。囲碁という娯楽そのものもそれなりにたのしくはあるものの、泰が囲碁において一番好きなのは石音だった。打ち手の性格や局面の具合や精神状態が反映される、単調ながらも趣ある音。その響きから対局相手の心理を想像して着手の参考にすることも、泰の場合は多かった。


 覗き込めば中の様子を詳しく見られそうだったが、しょぼくれた老人たちが目に入り興をそがれて引き返すのはしゃくであると泰は思い、そのまま扉を開けて中に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る