第37話「粗忽」

Fura-Sucoフラスコ』を出て、泰はほんのりと色づき始めた上空を見やった。


 まだ青が大半を占めてはいるものの、背後に見え隠れするだいだいが存在感を放っている。サービス業――たとえば介護現場など――で、遅番スタッフが定刻前から早番スタッフの後ろで早々と仕事の準備を始めるような光景に近いだろうかと、泰は就いたこともない業種について想像しながら思う。


「俺もじゃん」


 数秒後、泰は自らの粗忽そこつに気づき苦笑する。就いたことがないなど、噓もいいところだ。授業の準備や試験問題作成やあるいは部活動の顧問など、一銭にもならない作業に身を粉にして取り組む教員という存在がサービス業でなければいったい何に該当しようか。直之や優里と内容をことにしていても、客商売――という表現が適切かどうかはさておき――であるという点はなんら変わらないと、泰は歩きながら猛省する。


 来た道を戻る最中、左側に見慣れないものを見つけた。

 一階に寂れた中華料理屋、二階に最近できたと思しきガールズバーの入った雑居ビルの前に、古びた立て看板が置かれていた。看板には“囲碁”の二文字だけが記されており、文字にはところどころに傷や剝がれがみられた。来るときにはなかったと断言できるほどには、泰は優れた記憶力を有している。


 大学時代、直之と美咲に付き添って、泰はしばしば都内の碁会所に行った。

 三人とも囲碁部に所属していたが、活動が盛んな部ではなく、彼らのほかにまともに囲碁を打つ部員は二、三人いるかどうかであった。活動日時が不定期であったことも相まってなおさら部内のみでは練習不足が否めず、三人で少なくとも週一回は碁会所へ足を運び、ふだん対局しない人たちと練習しようと提案したのは美咲だった。


 確か大学一年次の夏、大学のメインストリートを並んで歩いていたときだったなと、泰は思い出す。今朝の快晴みたいな笑みを湛えて美咲は言い、直之は美咲の勢いに少々圧倒されつつもまんざらでもない様子で首肯していた。泰はというと、そこまでして囲碁を打ちたいという熱意があったわけでもないが、直之や美咲と共有するひとときそれ自体に確かな心地よさを見出だしていたことと、自分が一緒のほうが直之も心強く感じるに違いないという確信を抱いていたことが理由となり、調子のよい返事をしたのだった。

 行く先は次第に固定されてきたが、トータルで三十を超えるほど様々な碁会所を訪れたのは美咲の好奇心が主たる原動力であったことを、泰も直之も当然のごとく解っていた。


 一年半ほど続いた碁会所めぐりにより、多少の棋力向上や人脈ができたことは間違いないと泰自身思ってはいるものの、碁会所めぐりを通じて未だに覚えているのは嫌な記憶ばかりだった。

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