第36話「表情」

「泰さん、元気?」

 冷蔵庫からピッチャーに入った麦茶を取り出し、コップにそそぎながら優里が尋ねる。

「うん、元気だったよ。いま春休みで、十連休なんだって」

「十連休!? 学校の先生って忙しいだろうに、そんなに休めるの?」

「まあ、生徒たちがいま休みだからね。使えずにため込んでた有休もあわせて長くしたらしいよ」

「そっかぁ。いいなー、私も連休ほしい。五日でいいから」

 麦茶を一気に飲み干してから、優里が羨望せんぼうを含んだ口調で言う。


 答えながら、昼間会っていたとき、そういえば泰の表情が落ち着きすぎていたような気がすると、直之はふと思う。

 それは、ともすれば気のせいかもしれないし、仮に気のせいでなくともわざわざ問題にするほどのことではないと、直之自身も解ってはいた。それでも、ふだんの爽やかさにほんの微量の哀感が混在していた可能性が濃厚ではないかと、直之は優里から受け取ったコップの縁に付着した水滴を見ながら推測する。


 別れ際、泰が嘘の理由を述べたからではなかった。

 泰の咄嗟の噓を見抜いても顔色を変えずに会話を継続させられる程度には、直之は泰のことを理解していた。泰が噓をつくとき――もしかすると彼自身は気づいていないかもしれないが――、彼の言葉はいつも「あぁ」で始まり、「ね」で終わる。

「あぁ、ちょっと夕方からゼミの連中と飲みがね」という文言は、だから直之にとっては聞き馴染みのある構文だった。同時に、泰が噓をつくのは重要な場面ではなく決まって瑣末な場面であり、それは直之に対するある種の気遣いのようなニュアンスを含むこともまた解っていたため、直之は泰の噓を不快に思ったことはない。

 

 泰は、直之よりもはるかに休息を渇望する男だ。

 大学時代は折々授業をすっぽかして囲碁部の部室でくつろいでいた。また、中学や高校の時でさえも、年に二、三度は仮病を使って学校を休んでいた。

 それでも、持ち前の要領のよさや頭の回転の速さを頼りに、泰はその場その場をつつがなく切り抜けてきた。大学時代は、単位をひとつも取りこぼすことなく高いGPA値を獲得した。そのまま上智の大学院に進学するのは造作もなかったはずだが、教授陣に魅力が乏しいという理由で外部受験をしたのである。十連休など取れた日には、泰はもっと浮かれた顔を見せてもよさそうなものだった。


「どうかした?」

 コップを注視しているときの直之は他事たじに意識を向けているということを、優里はむろん知っている。

「うん、ちょっと泰のこと考えてた。でも、よくわかんないわ」

 数秒の間をはさみ、直之が半笑いで答える。

 こうして問われたとき、直之が決してお茶を濁す発言をせずに持ちうる誠実さを発揮して返答するところを、優里は類い稀なる美徳であると思っていた。


「そう。私も久しぶりに会いたいなぁ、泰さん」

 去年の今ごろ、泰の松本行き直前に直之と三人で飲んだのが、優里にとって最後の対面だった。


「今度、会いに行こうかなと思っててさ。一緒に行く?」

 行くとすれば五月の大型連休のどこかだろうかと、直之は思う。

「行きたいけど、休み取れるかなぁ。ローテだからなぁ」

 セミロングの髪をかき上げながら、優里は曖昧な微笑を湛えた。


「まあ、日が合えば、かな」

 ティッシュペーパーでコップの水滴を拭き取りながら、直之が言った。

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