第35話「芳香」
マンションに戻り、エレベーターに乗り、直之は五階で降りる。
トートバッグから鍵を取り出し、鍵穴にさしこんでゆっくりとひねる。鍵を抜いて正常にドアが開くことを確認し、直之は普段のごとくわずかばかり安堵した。
玄関の照明だけが
優里は、直之の予想どおり外出中だった。大方、駅前のスーパーマーケットにでも出かけているのだろう。
ヴェランダに出ると、アークロイヤルの残り香が漂っていた。
優里の吸う銘柄は固定されておらず、数ヶ月もしくは数週間でシフトすることが多い。ここ最近の気に入りはアークロイヤル—―初代の、白いパッケージの物——らしく、ウルグアイ産のヴァニラの甘い
リヴィングに戻ったところで、ドアが開いた。
買い物袋を手にした優里の姿を見て、直之は玄関へ向かう。
「おかえりなさい」
「ただいまぁ。もう帰ってたんだ?」
直之が柔和な表情で迎えると、優里も笑顔を見せる。
「うん、ついさっき」
優里の持っていた買い物袋を受け取り、優里が洗面所へ行く間に、直之がキッチンで仕分けをするのがいつもの流れだ。しかし今日の直之は、受け取ってからその場を動かず、優里をじっと見つめていた。
「どうかした?」
直立したまま自分のことを見上げる直之に——優里は直之よりも十センチ背が高い——、優里が意外そうな表情で尋ねる。
「いや……、綺麗だなと思って」
決まり悪そうに答え、直之は思わず視線をそらす。
綺麗だと言ったのは、外見についてだけではなかった。孤独や葛藤の波を越え、いまこうして自分と優里がここにいるという現実ではないような現実をふと確かめ、その事実そのものが綺麗であると直之は思った。
「なあに、突然」
優里が半笑いを浮かべ、直之もつられて半笑いになる。
優里との生活にはどこか現実味がないように感じ、直之は優里と一緒にいない時間を心より渇望している。音楽や喫茶店といった付帯要素があるにせよ、孤独という現実が、良くも悪くも直之に一定の安息をもたらすのは確かなことだった。
それにも関わらず、こうして帰宅して優里がおらず、その上アークロイヤルの甘い残り香まで味わってしまえば、直之はたちまち優里に会いたくて
「大丈夫だから。ねっ」
直之の気持ちを
直之がどうにか笑みを作りなおして頷くと、優里は直之を抱きすくめた。買い物袋を落とさないようにぎゅっと右手を握ったまま、直之は優里の胸に溶け込む。
口元から、ヴァニラの甘い匂いがおりてきた。
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