第34話「煩悶」

 結局、あのときはなんの曲が採用されたのだったろうか。


 各クラスごと、一曲のみならず二、三曲ほどあったように思うが、そのなかの一つさえも直之は憶えていない。

 無理もないことだった。その年の運動会に、直之は参加しなかったのだから。それどころか、教室で岩永やクラスメイトと顔を合わせたのは、ほとんどあれが最後であった。


 やや我慢していた尿意が急迫してきたため、直之はWALKMANを止めてトイレに向かう。今度は先客がおらず、ほっと胸をなでおろした。

 先ほどの排泄から二十五分ほどで再到来した尿意を、さらに十五分ほど先延ばしにしていた。さすがにそれ以上の粘りは、直之にとって無謀な冒険に等しい。朝に一杯、昼に二杯のアイスコーヒーを摂取したことをふまえると妥当な反応であり、これが通常の間隔へと帰するためにはさらに三、四回の排泄が必要となることを、直之は経験則として理解している。


 用足しを終え、席に戻ってスマートフォンを確認すると、午後五時をまわったところだった。

 優里は喫煙タイムを終え、冷蔵庫を開きながら夕飯の品などを考えているころだろうかと直之は考える。今朝、直之が麦茶を一杯飲むためにあけたときの記憶によれば、ごく手軽な酒肴しゅこう――コンビニエンスストアで購入したスモークタンやポテトサラダ――のようなものしかなかったはずだ。

 音楽とともにもう少し時間をつぶしてもよかったが、小綺麗な女子大生店員の視界の範疇で頻回にトイレと席とを往復するのもどうにも気が引けたので、直之は離脱を決めた。飲み干した容器の底には、溶けきった氷が透明な液となって沈んでいる。手をかけると、やはり指や手の平に水滴が付着する。直之を現実へと引き戻す欠片。その現実から逃れるように、直之は残りの液をストローで放り込んだ。


「恐れ入ります、ありがとうございます!」


 返却口にトレイと容器を戻すと、横からすかさず先の女子大生店員の快活な声音こわねが直之の耳に入った。中野の洋食屋の金髪くんも口にしていた、紋切り型の言いまわし。されどその声音から、今この瞬間を彼らが清らかに誠実に生きていることを否応なしに感じさせられるようで、直之はいくらか気後れしてしまう。すでに接客にシフトしている女子大生店員に胸の内で一揖いちゆうし、直之は店をあとにした。


 パールセンター商店街は、来た時よりもいっそう賑わっていた。人の多さとは裏腹に、どこか寂寞せきばくとした空気が直之を包む。

 イヤフォンをつけてWALKMANをランダム再生に切りかえると、WANDSの『WORST CRIME』が流れる。久しぶりだった。小学校の運動会でかけるとして考えた時、この曲が一般的なセレクトと言いがたいことはさすがにいまの直之にはわかるものの、しかしあの時の自分の行動はなんら間違いでもなければ恥ずべきものでもなかったと、直之は思い返すたびに一度もそれを疑ったことがない。


 二番サビのフレイズを久方ぶりに聴き、歩きながら直之は煩悶はんもんする。


 “けがれなきものだけ探しながら 汚れてしまうこのMind 

 清らかな嘘なら 許されるの?”


 愚直に正直に誠実に、汚れなきよう生きてきたつもりだった。

 そんな風に思うことこそ汚れているのだろうかと直之は自らに尋ねるも、考え方云々の問題ではないことに気づいているだろうと、過去の直之が脳内で嘆息まじりに反問する。

 確かにそうだ。そうした感情をたてとして、畢竟ひっきょう汚れたものや厄介な事物から視線や意識をそらして生きてきたのかもしれない。幼いころからいままで、自身の興味の範疇でしか生を満喫してこなかったのかもしれない。


 “WORST CRIME”と連呼する上杉昇の、なかば捨鉢すてばちともいえる歌声にふれ、自分が大切にしてきた愚直や正直や誠実は、自身の範疇においてだけの独りよがりなものであったという絶望的な真実が内在する可能性をほんの少しばかり想像し、直之は寒心かんしんえぬ思いだった。




「ワーストゥクラァーーーーーイム!!!!」

 



 商店街の中心で、直之は突如として声を大にして叫んだ。

 周囲の男や女が即座に怪訝けげんな顔を作り、関わるまいとして直之から距離をとる。


 両耳では、柴崎浩の切れ味に富んだギターソロがじゃかじゃかと鳴っていた。


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