第28話「現実」
水滴を見て、直之は現実に立ち返った。
直之にとっての現実は、仕事に追われている平日でもなければ、こうしてコーヒーチェーンでくつろいでいる休日でもない。
自分の現実がいま現在においてはないことを、直之は知っている。直之の現実は、すべて過去の遺物だった。
楽しかったことも苦しかったことも、すべてはあの日、赤坂見附の中華料理屋で美咲の涙を目にしたとき、あるいは駅の改札前で「人でなし」という言葉を受けたときを境に、直之の記憶のなかにしか存在しなくなったのである。
優里と過ごす現在は良くも悪くも現実ではないと、直之は思う。
現実でなければ、ではいったい何であるのかはわからなかった。わからないが、現実という枠の外に存在している気がした。
水滴をハンケチで拭き取り、直之はイヤフォンをつける。
先ほどの排泄前にWANDSのアルバムを最後まで聴き終えたので、WALKMANの歌手別一覧を表示して違うアーティストを探る。なんでもよかったが、たまたま目に入った
シャングリラ。地上の楽園、桃源郷。もしくは、ユートピアという意味の単語。アルバムを手にしたのは高校二年のときで、直之は当時この英単語を知らず、辞書で調べて確かめたのだった。
優里との日々はシャングリラなのだろうかと、ふと思いをめぐらす。現実とは思えないような、優里という女との日常。
一曲目『夢で逢えたならどんな話しよう』のイントロのピアノを、直之は特に気に入っていた。哀愁を帯びていながらも、芯の強さを備えたフレイズ。ストローに手を添え、直之は残りのアイスコーヒーを飲み干した。
美咲に夢で逢えたなら、果たしてどんな話をしようか。
逢いたいのか、もしくは逢うべきなのかという問題はあるにせよ、直之は閉口してしまう。なにを話したところで、愚かな言い訳にしかならないのかもしれない。美咲とて、今さら再会したところで困惑するだけであろう。アルバムは二曲目の『風が吹いてひとりぼっち』にシフトし、ぽろぽろっと流れ落ちるようなエレキギターが直之を現実の外へと引き戻した。
音楽は直之にとっての精神安定剤であり、また親友でもある。
音楽無しには生きてゆけないなどという、ある種の標語のようなフレイズは決して珍しいものではなく、斬新な発想というわけでもないことを重々理解していた。
しかし、自分と音楽とのつながりは断じて生ぬるいものでもなければ自虐や同情を得るための手段でもないと、直之は胸を張って言える。
タバコが優里にとっての細胞であるならば、自分にとってのそれは音楽かもしれないと考えながら、直之は氷の残ったグラスをじっと見つめた。
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