第26話「錯綜」
アイスコーヒーは、直之にとっては物足りないものだった。
以前にも飲んだことがあるので味を覚えていたが、同じコーヒーでも日によって味にわずかな違いが生じることはあり得るだろうし、以前の自分と今の自分とでは同一のものでも感じ方が異なっている可能性もあり、直之はそれらに期待していた。今日のところはしかしなんの変化もなく、直之は半笑いを浮かべる。
カウンター席からは、商店街を行き交う人々が途切れることなく目にうつった。距離としてはこんなに近いのに、ガラス窓ひとつで向こうの声も音も、あるいは視線や存在認識そのものさえも逸らすことができるのは改めて考えるとすごいことだなと、直之はひとりで感心する。アルバム五曲目『Crazy Cat』を聴き終えたところで、文庫本以外の私物を抱えて排泄に向かった。
直之のトイレの近さを、美咲はよく気遣ってくれた。
デイトのときは近場でも遠方でも、現地に着けばいつもトイレの場所を真っ先に確認して直之に伝えた。
二年前、赤坂見附の中華料理屋で会ったときを除けば、美咲との最後のデイトはそのひと月前になる。
彼女の二十五歳の誕生日、東京交通会館の展望レストランで雑多な夜景を眺めながら、直之と美咲は牛フィレ肉のグリエや小海老のカクテルを堪能した。
日がな一日大雨で、二月の寒気と相まって、雨の冷たさがガラス越しにも届きそうな夜だった。白ワインをグラスで二、三杯摂取し、美咲は頬を赤くして破顔していた。その姿はいつにもまして
トイレから戻り、直之は再度WALKMANを再生する。
七曲目『Foolish OK』は、アルバムの中で特に気に入りのナンバーだ。
一見投げやりなようで、社会の荒波に呑まれそうな人や複雑な人間関係に
馬鹿げたことをしたのだろうと、直之は久しぶりに励ましのフレイズを聴きながら思いを致す。自身では、今でも選択は正しかったと確信しているし、馬鹿げているなどと思ったことはただの一度もなかった。
そのように考えたところで、しかし美咲を絶望の底に突き落としたという事実はなんら変わらない。優里と出会わなければ、過ちは軽いもので済んだのかもしれない。
錯綜する感情に揺らぎながら、直之は再び荷物を持って排泄に向かった。
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