第25話「利点」
商店街というのは程度の差こそあれ、どこであっても現実逃避じみた感覚を覚えるのだが、阿佐ヶ谷のパールセンター商店街は中野のサンモール商店街よりも現実逃避に適しているなと、直之は歩きながら思う。
入り口の、UFOのような形をした屋根からして漫画的な様相を呈しているし、立ち並ぶそれぞれの店の姿も、中野と比べてどこか現実的でないような気がした。
チェーンレストラン、漫画喫茶、食器屋、文具店、古着屋。そうした多種多様な店たちを眺めていても、中野のときのような想像は働かない。店の種類も並びも大差はないのにそういう違いが生じるのは奇妙にも思えたが、単に自分が住んでいる街で働く姿を想い描けないのだろうと、直之はひとまず納得した。
なによりも、七百メートルほど――サンモール商店街の三倍以上だ――の長さを有しているということが直之にはありがたかった。長ければ、そのぶんだけ逃避に溺れることができる。
中古CD屋の店前で五十円セールのコーナーがもうけられていたので、足を止めて視線をうつす。気に入りのBeing系アーティストの作品がいくつかあったが、すでに持っているものばかりだった。
商店街を四分の三ほど進んだところにあるコーヒーチェーンに入り、直之は店内を見渡す。席はかなり埋まっていたが、カウンターの端席が空いていた。ハンケチと向田邦子の文庫本を置いて場所を確保する。
レジに並び、直之は上方のドリンクメニュウを眺める。先ほど泰とお茶をしたばかりなのに、意外にも喉が渇いていた。本日三杯目のアイスコーヒーといきたいところだが、コーヒーの多量摂取は排泄間隔の短さに拍車をかけることになるだろうと思い、並びながら直之は逡巡する。とはいえ、結局なにを頼んでもトイレが近くなるのは避けがたく、かといってドリンクを頼まずに二百円前後のクッキーやマドレーヌのみを購入して無料の水で流しこむというのも気が引けた。
「アイスコーヒーのSサイズお願いします」
順番がきたので、直之は女子大生らしき店員に素直に飲みたいものを告げ、財布から千円札を出す。
七百円のお返しです、という爽やかな声とともに、彼女が直之の右手に自身の手を添えて小銭を渡した。こうした行為は賛否の分かれるところかもしれないが、それなりに器量のよい若い女性の手に触れられることを不快に感じるはずもなく、直之はわずかに目尻を下げ、内心で相好を崩した。
席につき、鞄からWALKMANを取り出し、イヤフォンをつける。先ほどの中古屋で見かけたWANDSのアルバム『PIECE OF MY SOUL』を、久しぶりに再生した。
チェーンのカフェは、往々にして隣の客との距離が近かったり、たまに店員の対応が雑だったり、あるいはコーヒーの質的観点からみて個人で長年奮闘しているような――たとえば『無雑』などの――喫茶店と比較して物足りない点が多いなど不満もある。直之は、でもこういうチェーン店を案外気に入っていた。
個人店よりもたいてい安値でおさえられるし、釣り銭をもらうとき、今日のように女子大生店員に手を添えてもらえる可能性があるなどいくつかの利点があるが、とりわけ好ましいのは周囲を気にせずにいくらでもイヤフォンをつけて音楽を聴けることだった。
個人店の場合、多かれ少なかれ店主との距離感を意識してしまい、イヤフォンにより周囲から隔絶した空間をつくり出すことにそこはかとない罪悪感を覚えるのである。直之は、だからいつも状況や目的に応じた喫茶店選びを心がけている。
アルバム三曲目『世界が終るまでは…』の冒頭の情熱的なギターフレイズを聴き、思わずエアギターで音色をなぞった。
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