第24話「神聖」

 総武線で阿佐ヶ谷に戻り、直之は自宅と反対の方向に歩きだした。

 

 優里ゆりはもう起きただろうかと、直之は思いめぐらす。

 もとより夜型のため、一晩働きとおした後でも、表情にはさほどの眠気を感じさせなかった。いっときは、だから夜勤明けでもまったく眠らずに過ごしていたが、ここ最近は多少でも休んだほうが体が楽になることに気づいたらしく、仮眠をとるようになっていた。直之のように排泄間隔が短いわけではなかったが、三時間も眠ればほぼ例外なく目が覚め、それで充分に疲労を払拭できると話していた。

 

 障害者の入所施設で優里が働きはじめて、およそ一年半経つ。

 身を固めるにあたり、優里は、自分も直之と同じように、社会的に弱い立場にある人の手助けがしたいと打ち明けた。飯田橋のカフェのデッキサイドで、今日のような晴れわたる空に包まれているときだった。


 直之は、すぐには首肯できなかった。

 身体的・精神的負担が顕著で、なおかつ目を覆いたくなるほどの薄給でもある福祉の現場職が安易な気持ちで勧められるものでないことは、その道を貫いている直之には痛いほどわかっていた。

 

 優里の意志は、しかし揺るがなかった。

 大学で学んだ経済学や簿記の知識を活かせる働き口もあったはずで、直之は事前に職安にて、彼女のスキルに合いそうな求人を調べて資料を集め、その日に持参していた。デッキサイドで、優里はそれらのひとつひとつに丹念に視線を投じ、それぞれの求人について勘所かんどころを押さえたコメントをした。直之の配慮をありがたく思いつつも自らの決断に少しの迷いもためらいも抱いていないことは、その切れ長の眼差しから見てとれた。


 仮眠から目覚めるとトイレに行き、それからヴェランダに出てタバコを吸う。

 タバコは細胞のようなものだと、優里は直之との初めてのデイトのときに語った。精神的な意味だけではなく肉体的な意味も含めて、自分という人間を形成する一要素がタバコであると、優里は疑いなく信じていた。非喫煙者の直之には到底理解のおよばない考えであったが、それほどに信を置けるものが身近に存在することを直之は羨ましく感じた。

 

 ヴェランダでの優里の喫煙タイムは長い。

 イヤフォンをつけて三十分から一時間ほど、じっくりと吸う。季節がら、古内東子ふるうちとうこの『Peach Melba』でも聴きそうだなと想像し、直之は頬を緩めた。

 

 イヤフォンで音楽を聴く時間は、彼にとって神聖なものだ。

 一時間でも三十分でも、あるいは仕事のあいまの十分ほどの休憩中でさえも、気に入りの曲に浸る時間は外部のなにもかもを自身と同種の磁力で反発させたいという気持ちを、直之は切実に抱いている。

 

 曲の世界に心酔している最中に話しかけられたりすれば途端に鼻白はなじろんでしまうし、そうでなくとも近くに見知った男や女が――たとえば職場の休憩室などで――視界に入れば、それだけで落ち着いて楽しむことができなくなる。

 優里も同じ考えであると、直之は確信していた。直之は、だから優里が夜勤明けの日は、確実に喫煙タイムが終わっていそうな時間――午後五時くらい――までは家に戻らないようにしている。

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