第23話「一歩」

詭弁きべんだな」

 ひととおり聞き終えてから、田中がはなも引っかけないような態度で言った。


「考え方、もしくは価値観の相違かと」

 自分とお前とではそもそも知的レベルに差があるという旨を、できる限りのやわらかい表現で泰は言う。

「そうだな。生徒たちがどう思うかなど考えずに屁理屈をこねて好き放題する君とは、これ以上話しても無駄のようだ」

 まったく的外れな見解ではないとしても、田中のように体裁を繕うことにしか精を出さない男に言われるのは不愉快なものだと、泰はじわりと眉をひそめる。


「グループディスカッションだのなんだの、前から妙なことをちょこちょことやっているらしいことは小耳にはさんでいたが、もっと早くに注意すべきだった。

 これ以上、君の好きなように授業をさせておくのは生徒のみならず、他の教員にとっても精神衛生上よろしくない。君には、今日から二週間の謹慎処分を下す。復帰後の授業については、しばらくの間は蛭田君に監督してもらうこととする」


 なにかしらのペナルティを課されることは読みどおりだったが、二週間の謹慎処分という措置は、泰の予想を上まわった。



 氷が溶けてフラスコグラスに残った水分を、ストローで摂取する。

 カウンターの常連客は、店主と話し終えて文庫本に目をうつしていた。



 人当たりのよさ、あるいは当たり障りのなさが、良くも悪くも泰という人間を特徴づける性格だった。

 幼少期より、おおむね誰とでも適当な距離感で接するスキルが、無意識的に備わっていた。泰自身、それはなかなかに便利な性格だと感じていた。波長が合わないと感じる人や気に食わないと感じる人にも、もちろんそのときどきで出くわしてきた。しかし、そういう類の人間とも、見事なまでの穏便さによって無難な時間を共有してきたのである。


 昨年の十月事変は、だから泰としては珍しいほどに派手な衝突といえた。

 上の方針に沿わずに独自のやり方を展開していればいずれそうなることぐらい、わかっていたことだ。他の有象無象の輩と並んでつまらない授業をしたくないという矜持はあったにせよ、それにしてもややこだわり過ぎた側面があると、泰はいまとなっては感じるのである。al.ni.coの『Living for myself』の、あやしげなイントロが心地よく響く。


 二年前の一件のせいだろうかと、泰は思う。

 あの事件は当事者――直之と美咲――のみならず、部外者の泰にとっても衝撃的なものであった。直之とは中学に入ったときからの長い付き合いだが、あのような大胆な言動にでる直之を見るのは、泰はあのときが初めてだった。

 

 最初に生じた感情は恐怖だった。寡黙で温恭おんきょうで誠実な、自分がよく知っている直之がふだんと変わらぬ口調で話しだしたことに、泰は背筋が寒くなるようであった。

 次なる感情は怒りだった。直之のとった行動とその後とろうとしている行動とを踏まえれば、その感情は頷けるものであった。幼いころから友達の少なかった直之にとって、泰は唯一の親友と呼べる男であり、表面上の友達には事欠かなかった泰にとってもまた、直之はただ一人の肝胆相照かんたんあいてらす友人だった。

 土曜日の夜、大久保のコーヒーチェーンはずいぶんと空いていた。窓の外では、篠突く雨がとどまることなく夕闇を駆け降りていた。


 触発された、という言葉で表すには、あまりにも次元の違いすぎる問題かもしれない。泰は、しかし自分の歩みや世間との付き合い方などを、直之の生き方を目の当たりにして見つめ直すべきだと確かに感じたのである。十月事変は、そのための小さくも貴重な一歩であったと、泰は肯定的にとらえていた。


 アルバム最終曲『Prayer』を聴き終え、イヤフォンをはずして首にかける。『Fura-Suco』に来てから、いつのまにか二時間近くが経っていた。


「ごちそうさまです」

 席を立ち、カウンターの奥にいる女性店員に声をかける。店主は入店時と同様に、後方で洗い物をしていた。


「ありがとうございます。六百円ですね」

 声を受け、財布から千円札を一枚取り出し、カルトンに置く。

「四百円のお返しです」

 女性店員が、カルトンに小銭を並べて置いた。


「また来ます」

 財布に小銭をしまい終え、昔から得意としている爽やかな微笑を湛えて、女性店員にひと言を添える。また訪れる保証などなかったが、泰の微笑も言葉も、確かに本心に違いなかった。


「はい。お待ちしてますね」

 女性店員が莞爾かんじと微笑む。


 洗い物を終えた店主が振り向き、ありがとうございましたと、低くて厚みのある声で言った。

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