第18話「微笑」

 『Fura-Suco』の店内はこぢんまりとした外観に比して、案外広々としている。


 直之同様、個人でやっている落ち着いた喫茶店には心惹かれやすい質であったが、狭小で、他の客や店の人と距離が近いようなところはあまり好まない泰にとって、こういう適度な距離感のある店は理想ともいえるものだった。広い空間に合わせて無理に席数を増やしていないところも好印象だった。CDコンポから流れるオルゴールセレクションは、中島みゆきの『糸』に代わっている。


 松本での生活もそろそろ限界かもしれないと、左端に置かれた観葉植物に目をやりながら思う。


 生まれも育ちも東京二十三区内という生粋の都会人である泰にとって、夜十時を過ぎて開いている飲食店が周辺にほとんどないような地方に暮らすのは、たいそう水が合わないものであった。それだけなら我慢もできようが、歴史の浅い地方私立学校の愚劣な指導体制や真剣さに乏しい生徒たちに、この一年でずいぶんと辟易していた。


「お待たせしました」


 女性店員が、笑顔でアイスティーを運んでくる。その容器を見て、泰は一驚を喫した。学生時代に理科室に置いてあったような三角フラスコさながらの形をしたグラスに、色鮮やかな茶の液体が注がれていたのだ。

 前に訪れたときは、確かブレンドコーヒーを注文した。そのときのコーヒーカップがどのようなものだったかを詳細に思い出せるはずもなかったが、少なくともこの新奇なグラスは今日初めて目にしたという確信があった。店名のフラスコとはこういうことかと、思わず半笑いになる。


「変わってますでしょ、これ」

 泰の半笑いを受け、女性店員がフラスコ型グラスを示しながらにこりと微笑む。

「あっ、そうっすね。びっくりしました」

 ごゆっくりどうぞ、のひと言で終わると思っていたやり取りがさらに継続されたことを意外に思いながら、泰は半笑いを微笑へとシフトさせた。


「うちのマスターがガラス職人の方と知り合いで、依頼して作ってもらったんですよ。先月でしたよね、確か」

「ええ、そうなんです」

 振り向いた女性店員の言葉を受け、店主が軽く微笑みながら、くだんの低いけれども渋すぎない、優しさを帯びた声で答える。


「いいですね」

 『糸』が終わりかけて、次はなにが流れるのだろうかと思いながら、両方に視線を送って言った。

「ごゆっくりどうぞ」


 女性店員が一揖し、カウンターの奥へ戻っていく。

 CDコンポからは、河口恭吾かわぐちきょうごの『桜』のメロディが流れはじめた。

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