第16話「駅舎」
泰の自宅は目白なので、そもそも乗るべき電車を
同じ中央線でも東京方面に乗り、ひと駅先の新宿で乗り換える必要がある。直之に妙な嘘をついたために反対のホームに足が向き、ついそのまま来た電車に乗り込んでしまったのだが、肝心の行き先は未定だった。
三鷹まで来て、しかも今しがた発車したところで、このままなにもせずに次の駅で上り電車に乗り換えるのは滑稽なことこの上ないと、泰は思う。武蔵境を過ぎ、結局次の東小金井で下車した。
東小金井。中央線の中でも影の薄いその駅は、大学院生時代にいつも通過はしていたが、降りたことはほとんどなかった。
階段で地上に降り、ICカードで改札をぬける。ぬけたはよいがどうしたものかと思案しながら、とりあえず券売機で交通系ICカードのチャージをした。
改札をぬけ、左側が北口、右側が南口だ。北口からしばらく歩けば小金井公園にたどり着くことは知っていたので北口に行きかけたが、ふと泰は思い出した。南口を出て徒歩数分のところにある喫茶店に、以前一度だけ訪れたことがあったのである。
大学四年の秋、一橋大学に願書を提出しに行った日のことだった。
帰りの中央線が人身事故で大幅に遅延し、東小金井駅で運転見合わせになった。見合わせてから十五分か二十分ほどはおとなしく車内にいたが一向に動きだす気配がなく、やむなく下車して南口方面をふらふらと散策した。駅舎の横のフラワーショップから、キンモクセイの香りが漂っていた。
飲食店やコンビニエンスストアが立ち並ぶ路地をうろついていたところ、個人経営のこぢんまりとした喫茶店を偶然見つけ、そこでしばらく休憩した。
その日は三、四限に必修科目の授業(ラテン語の文献講読)があったのだが、予期せぬアクシデントにより気勢をそがれたことと、その喫茶店が思いのほか居心地がよく長居してしまったために、授業をサボってそのまま帰路に就いた。
およそ六年ぶりに歩く街並みの何もかもが、泰の目には初めてのようにうつった。駅舎横の小規模なフラワーショップ、騒々しいパチンコ店、薄汚れた外観の中華料理屋。
以前に来たときもおそらくそうであったように、やはり泰はそれらになんの感慨も覚えなかった。活気がなく、されどそれなりの利便性を備えたこの辺りは住みやすそうではあるものの、わざわざ訪れる場所ではないと思う。
松本にもこういう街がひとつふたつあればもう少しましな暮らしを送れるだろうかと、泰は苦い笑いを浮かべる。フラワーショップの入り口付近に、やわらかな青紫色のルピナスがちんまりと佇んでいた。
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