第15話「瑣末」

 社会科で専任講師のポストをつかむのは狭き門であることを、泰はかつて身をもって実感した。

 英語科や数学科ならば人手が足りていないこともあるようだったが、社会科についてはどこも飽和状態に近い様相で、そもそも専任での募集を探すことすら苦労した。

 

 大学院進学は蛇足でしかなかったのだろうかと、中央線に揺られながら思う。土曜日の高尾方面のそれは、泰と同じくプライヴェートのただ中にいるような人々でそれなりに混んではいたものの、タイミングよく端席の乗客が下車したため、すぐに座ることができた。

 

 鞄からiPodを取り出し、泰はイヤフォンをつける。

 プロペラのアルバム『快楽のスタンス』は、最近の泰の気に入りだ。一曲目『クモノスキマ』の、権田ごんだたけしによる乾いたギターサウンドが耳に沁みる。

 

 快楽。人生のなかで、真にそのようなものを享受できる人間がどれだけいるだろうかと、泰は嘲るように薄笑う。少なくとも自分がそれに当てはまらないことを、泰は確信していた。

 寝る相手には事欠かなかった。それなりに恵まれた姿態と十分な学歴、加えて人当たりのよさのような気性も相まって、異性にいっときの揺らぎをもたらすのがそれほど困難なものでないことは自分でもわかっていた。それで快楽の受益者ではない、などと豪語することは不遜かもしれないと重々理解してはいたが、その確信はやはり揺るがないものだった。


 就職活動と、社会に出ることそのものをなんとなく億劫に感じ、泰は大学院への進学を決めた。むろんそれだけが理由ではなく、当時専攻していた近代ドイツ文学――上智大学の文学部哲学科に所属していた――について、より掘り下げて研究したいという願望も根底にあった。

 研究分野や教授を品定めし、わざわざ外の大学院を複数受験したことを踏まえても一定の真剣さを携えていたことは、客観的にみても得心のいくところだった。しかし、ドイツ文学などに熱意をそそいだところで働き口が増えるわけではなく、大学院での研究などいわば金持ちの道楽のようなものに違いないこともまた、泰は承知していた。

 結局、第二志望としていた一橋大学の大学院に進学した。第一志望は東京大学だったが、受験の申し込みを忘れるという珍事により断念したのである。直之にそれを話すと、ヤスらしいなと言って面白がるように笑っていた。


 直之には先ほどあのように言ったが、夕方からの約束など泰にはなかった。

 直之に対して、そんな瑣末さまつな嘘をつく必要などない。あのときICカードのタッチ音を聞き終えてから、いや別にないよと言ったところで、怪訝な顔をつくるはずもなかった。お茶をするときも酒を飲むときも、適当な場面でそろそろ行こうかと切り出すのは泰の役目だ。

 

 それなのに、あの場で嘘をついたのはなぜだろうかと、泰はプロペラを聴きながら考える。中央線はいつのまにか三鷹に到着し、特急列車の通過待ちのためにしばし停車しますというアナウンスがなされた。

 どことなく、嘘をつかねばならないような空気が漂っていたような気もするし、もしくはあの場で解散する正当な理由づけが必要だったからという気もした。

 今さらそんなことを考えたところでそれこそ瑣末なことだなと、泰はため息をつく。iPodから、アルバム四曲目の『ダメな人』が流れだした。

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