第13話「幸福」

 席に戻ると、ちょうど男性店員がドリンクとケーキを運びにきたところだった。直之が注文したアイスコーヒーと紅茶のシフォンケーキ、泰が注文したアイスティーとチーズケーキがテーブルに置かれる。


「ごゆっくりどうぞ」

 店員がやや早口で述べ、伝票を置いて戻って行った。


「うん、変わってないな」

 チーズケーキをひと口入れて、泰がふわりと顔をゆるめる。

「食後にちょうどいいね」

 チェーン店のケーキと比べるといくらか小ぶりではあるものの、オムハヤシで満腹になったあととしては適切なヴォリウムで、直之はそこが気に入っていた。味の面でも卓出しているわけではないにしろ、欠点を感じない本格的なデザートだ。


「仕事はどうなの?」

 シフォンケーキにフォークを入れながら訊く。

「相変わらず、適当にやってるよ」

 半笑いで答え、泰がチーズケーキの最後のひと切れを食べきった。

「高三だっけ? 受け持ってるの」

「そうそう。あと、中一のクラスも持ってる」

「中一と高三じゃ、まったく違うでしょ」

「まあな。一年生のほうは、ほとんど授業になってないわ」

 泰が苦笑し、つられて直之も一笑する。

「小学生の延長だからねぇ。まだまだ時間かかるのかな」

「いや、最初の一、二ヶ月は、案外おとなしかったんだよ。向こうもまだ探り段階って感じで。だんだん慣れてくるとサボり方を覚えたり、そもそも勉強する気がなかったりして、脱落者が増えてくるんだよな」

「なるほどね」

 

 いまみたいに自分から聞いておきながら、興味があるのかないのかわからないような曖昧な微笑を、直之はたまに浮かべることがある。

 まるで相手に話をさせること自体が目的で、その中身はなんでもよいと言わんばかりの空気が漂っていることがあると、泰はときどき――たとえば、こうしてアイスティーを飲み干して手持ち無沙汰になりお冷に手をのばすようなときに――感じることがある。

 

「あれから、美咲ちゃんとは?」

 泰の問いかけに、直之は口元に持っていきかけたシフォンケーキを皿に戻す。先ほどの微笑を湛えたまま、うつむきがちに少し首をふった。

「何年経つんだっけ?」

「二年」


 こうなることはわかっていた。どんなに当たり障りのない話を続けたところで、結局泰は美咲のことを尋ねる。それはなかば義務のようで、また直之を現実に呼び戻すための行為でもあると、泰は思っていた。美咲とたもとを分かってからの直之は、現実と過去との境をふわついている。


「清々しく、筋の良い碁を打つ人だった」

 アイスコーヒーの氷をストローでからからと遊ばせながら、郷愁を含んだ笑みを見せる。直之がゆくりなく脈絡のなさそうなことを言いだすのも珍しくはなかったので、泰は驚く様子をみせない。


「清々しいというか、斬新な感じだったよな。五の五とか好きだったし」

 お冷をひと口ごくりと飲んでから、泰は少しの間を置いて答える。

「最近、打つ棋士いないよねぇ。五の五」

「そうだなぁ。AI旋風が起きて、ますます足早でからい風潮になってるから、なおさらだな。そもそも、その前だって山下敬吾やましたけいごぐらいしかやってないんじゃね?」

「あぁ、それもそうだね」

 戦前のいわゆる“新布石時代”、木谷實きたにみのるらによってすでに実戦例があるなどと言ったところで、さらに話を脱線させるか、もしくは重箱の隅をつつく以上の意味はないと思った。


「ちょっと一服」

 泰が、ライターとメビウスを持ってテラスへと移動した。『アーベル』は店内は全席禁煙で、喫煙の際は入口と反対側のテラスに出ることになっている。

 

 泰との時間は、ほかの誰といるときよりも穏やかに流れる。清爽な午後。通い慣れた喫茶店。後方のテレビから、常総学院エース打者のホームランに対する歓喜の声がきこえる。

 泰がこうしてタバコを吸いに出て自分ひとりになる数分間が、直之には心地よいものであった。対面している時間よりも、ともすると幸福の度合いは優るかもしれない。だれかと会う前の時間に種々しゅじゅな想像をめぐらせることが快適なのと、たぶん同じような感覚だった。いったんその場を離れた男がまた同じ場所に戻るとわかっていることも、直之の幸福感をふくらませる。

 

 先ほど唐突に碁の話をしたが、そういえば明日のNHK杯の対局者は誰だったろうかと思い、ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出して検索した。

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