第12話「安堵」
「ここもご無沙汰してたな~」
袋に入った厚手のおしぼりを取り出しながら、泰が感慨深そうに言った。
「松本にはこういう店ある?」
泰は去年の四月から松本の中高一貫校に勤めており、いまは学校が春休みでゆとりがあるので帰省している。
「ないわぁ。だって松本だよ? こんな洒落た店あるわけないって」
おしぼりで顔を拭きながら、当然だというように答える。
だって松本だよと言われても、松本に行ったことがない直之としてはどのように想像すればよいのかと思いつつ、しかしなんとなくわかるような気もして半笑いを浮かべた。
「アイスコーヒーと……シフォンケーキも食べようかな」
「おっ、じゃあ俺はアイスティーと……あとチーズケーキにするか」
オムハヤシで満腹になっていたが、甘いものを食べて糖分をしっかりと摂ったほうが話に実が入るかもしれないと直之は思い、もともと甘いものに目がなく、“デザートは別腹”という紋切り型の理由付けによって食欲を再燃させるのが常である身としては、とりあえずケーキを頼めば間違いないと泰は思った。
「ちょっとお手洗い」
店員に注文を告げたあと、直之が離席する。直之の排泄間隔が短めであることは、泰もよく知っていた。斜め前方の壁掛けテレビからは、春の甲子園の熱気が漂っている。
この店のトイレは、エスカレーターを上って右側にある。基本的にはビル内の施設を利用する人しか使ってはいけないことになっているが、そうでなくとも緊急を要する際はそんなことは言っていられず、直之はたまに活用していた。
泰に会うのは半年ぶりだった。前回は、九月の下旬に遅めの夏休みを取得して――八月は受験生の特進授業やらなにやらで忙しく、あまり休みが取れなかったそうだ――帰省してきたときだった。
そのときも、今日とほとんど同じような流れだった。中野の本屋で直之が先に立ち読みをして待ち、しばらくして左肩に親指の圧を感じる。そのときは、日本棋院出版の詰碁の問題集を読んでいた。信号を渡って洋食屋へ行き、オムハヤシを味わってからアーベルへ。晩夏の名残りを感じる蒸し暑い午後だった。
中野の街並みも泰の爽やかさも、半年前と変わらない。
いや、爽やかさというよりは、人当たりのやわらかさといったほうが適切だろうか。泰は昔からそうだった。おおむね誰とでも適度な距離感で接するという技術に、泰は長けた男である。教師の道に進んでからは、しかしなにかと厄介な係累に難儀しているらしかったが、ともあれ変わらない笑顔を見られただけで直之は心底から安堵していた。
さっさと用を足し、手洗い場に移動する。
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