第10話「力作」

 舟型をした銀の器の中心に浮かぶ、こんもりとしたオムライスのかたまりは、いつ見ても希望の象徴のようだ。

 その周囲にくまなく注がれたルーの大海と重なり、鮮麗な芸術品のごとき姿をしたその力作に、二人はそろって相好を崩した。ピーター・ガブリエルが終わり、ボニー・タイラーの『Holding Out for a Hero』の前奏が流れだす。


「いやあ、美味いわ!」

 ひと口食べると、泰が感にたえた表情でつぶやく。


 ずいぶん前から直之に連れられて何度も堪能してきた味であったが、半年ぶりの来店だったことを踏まえると初めてとは言わないにしろ、まるで二度目か三度目であるかのような新鮮さが付随していたであろうことを、泰の横顔を一瞥するだけで直之は察した。


「ルーの煮込み具合がすごいなぁ」

 一昨日食べたばかりの直之も、つられて今さら口に出すまでもない感想を述べる。

「ハヤシっぽくないけど、そこがまたいいんだよな」

「この肉たち、ね」

 直之がスプーンでルーを多めにすくうと、これ以上ないと言わんばかりに煮込みつくされた様相の肉たち――牛と豚の両方が煮込まれているのだ――が宙に浮かぶ。口に運ぶと、やわらかな食感に赤ワイン仕立ての上質な甘さが拡散した。


「オムレツも相変わらずすげぇ……」

 ここのオムハヤシの最たる特徴はオムレツにある。

 目にしただれもが、スプーンをいれることに罪悪感を覚えるだろう。それほどのやわらかさを視覚のみで十分に堪能できてしまうオムレツに、泰は観念してスプーンを挿入する。


「生きててよかった、って思うね」

 同じタイミングで、直之もオムライスの部分と赤ワインの肉たちをまとめて口に運ぶ。"ふわとろ"という形容ではあまりに安っぽく思えるほど、ここのオムレツは美しい味を奏でる。特に、今日のそれは一段と磨きがかかっているように思えた。


 互いに三つ四つほどコメントすると、以降はそれぞれ黙々と手を動かした。

 向かい合っての食事であればまた別だが、こういう長居しないことを前提とした横並びスタイルでの食事の場合、会話はそこそこにして店の回転率に貢献することが正しい客としてのあり方だと、直之は考えている。前に泰にその話をしたところ、そこまで考え過ぎることもないだろうと微苦笑していた。

 

 考え過ぎ。その言葉を通じて自身の行動や性格を言い表される機会が、これまでの直之の人生では多々あった。思慮深く、あるいは篤行とっこうを目指して生きてきたと、直之自身も思っていた。


 人でなしと、あの夜美咲は言った。

 

 海賓樓かいひんろうを出て、ベルビー赤坂口の改札前までの道のりはものの二分ほどであるが、あのときの直之にはとても長く感じた。泣きやんだあとも美咲はひと言も口を開かず、黙ったまま一歩先を歩いていた。店主に包装してもらった、食べかけの五目炒飯と焼き餃子の入った小袋が、とうに冷めているはずなのに妙に温かく感じた。

 

 改札のそばに立ち、なんと言うべきか逡巡していたとき、美咲の口から出た言葉が人でなしだった。美咲の顔を見る余裕は、あのときの直之にはなかった。それまでの直之の人生に積徳などと言えるものがあったとすれば、美咲のあのひと言で、それはすべて無に帰した。


「美味かった。堪能した」

 ひと足早く、泰が完食してナフキンで口を拭いている。この店の料理にいつでもありつけるのは、数多い都会暮らしの恵沢けいたくの中でもかなり上位にくるだろうなと、食後の水でのどを潤しながら泰はしみじみと思う。二階から、四、五人の客が階段を降りてくる音がきこえた。


「恐れ入ります、ありがとうございます!」

 直之が食べ終わり、それぞれカウンターの上のスペイスに食器を下げると、金髪くん――いつの間にか調理から接客にシフトしていた――が威勢よく礼を述べる。


「お客様お帰りでーす!」

 二人が出入口に向かうのに合わせ、金髪くんが先に扉を開けて待機している。忙しいときでも極力客の見送りを欠かさないこの店の接客スタイルには、直之も泰も瞠目どうもくしたものだった。


「ごちそうさまです」

「ごちそうさまです」

「どうも、ありがとうございました! またお越しくださいませー」

 

 金髪くんの丁寧なおじぎを背に、気持ちよく店を後にした。


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