第7話「歩道」

 溝上知親みぞがみともちかの棋書に視線と意識を傾注していた最中、直之の左肩に指先がふれた。右手の人差し指一本。重要書類に捺印するときのような、慎重さと力強さを備えた重圧。


「よっ」

 振り返るよりもわずかに早く、泰が右手をあげて簡潔な挨拶を述べる。

「久しぶり」

 棋書を棚にしまい、ほんの少し口元をゆるめて挨拶を返す。

 店内の壁かけ時計は、十二時二十五分を示している。昼すぎと呼ぶに適切な時間だと、直之は思った。


「結構待った?」

 どのくらい待ったかなど、直之がさほど気にとめないことはわかっているはずだが、会話のきっかけをつかむかのように、泰は決まってこういった質問をする。

「ん……二、三十分ぐらい?」

「そっかそっか。コーヒー、奢るから」

 

 悪い、とか、ごめん、とか言う代わりに、泰は時折こういう物言いをする。

 人によっては傲慢ともとれる泰の物言いが、でも直之は嫌いでなかった。泰の言う「コーヒー、奢るから」に、その文面以上の感情――謝意だとか感謝だとか――が含まれておらず、会話のキャッチボールとしての役割しか備えていないことは、直之にはありがたいことだった。

 些細なことで気を遣われたり謝られたりするのは日常生活においてままあることだが、そういうとき、直之は不思議と心地悪さを覚える。なぜそう感じるのか自分でも判然としなかったが、そのように感じることがマイノリティである可能性と、自分が日ごろ接する人間がたまたまそういう性格をしているという可能性とがありそうだった。


「三月の下旬って、こんなに暖かかったかな」

 黒の半袖Tシャツ一枚に藍色のブルージーンズという軽装をした直之が、横断歩道を渡りながらひとりごつ。


「春だし、こんなもんじゃないの?」

 赤と黒のボーダーシャツにグレイのアンクルパンツという、同じく軽装の泰が、直之のほうを向いて答える。

 明らかに自分に対して問いかけているのに、返答するとほんの少しだけ意表を突かれたような顔をつくる直之に、泰はやれやれと内心で肩をすくめた。左側に、見たことのない韓流アイドルグループのCDリリース情報が印刷された宣伝トラックがとまっている。


「いつものとこでいい?」

 横断歩道を渡りきり、今度は泰のほうを見て尋ねる。

 一六四センチと小柄な直之に比べ、泰は一八十センチ近い長身なので、目線をくいっと上向きにしている。恒常性外斜視こうじょうせいがいしゃしの右眼はあさってのほうを向いており、左眼が主力となって泰をとらえる。


「もち。久々に戻ってきたんだから、他にないっしょ」

 泰が左手の親指を立て、屈託ない笑みを浮かべる。宣伝トラックから、きいたことのないダンスミュージックが流れはじめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る