第6話「咀嚼」

 外に出ると、上空の青は依然として壮大なかんばせをしているように、直之には見えた。暑すぎるわけでなく雨傘も日傘も不要の快適な天候を、直之は重苦しいと、ときどき思うことがある。

 直之にとって、晴天の空を長時間浴びることは不健康だった。紫外線の問題ではない。その明るさや鮮やかさによって恐喝されているような、そうなるべきだと強制されているかのような心苦しさに、直之はときどき壊れそうになる。

 

 青空。美咲は、空が似合う女だった。

 催花雨さいかうののちにぱっと晴れ渡り、ソメイヨシノが咲きわたるような清澄せいちょうな青空。

 そういう風になろうとしたことも、直之には確かにあった。そうなれなかったことへのもどかしさや空しさを感じるより先に、そもそも自分は本当にそれを欲していたのだろうかと、後々になって疑問を抱いた。


 トートバッグからWALKMANを取り出し、イヤフォンをつける。再生ボタンを押すと、米倉利紀よねくらとしのりのなよなよとした歌声が優しく耳に入る。

 商店街を通り、直之はバス停に向かった。中野駅までは歩くと一時間弱かかるので、さすがに負担が大きい。バス停につくとちょうど中野駅行のバスが来ていたので、長財布から先ほどのお釣りの小銭を取り出して乗車した。

 

 バスの中のにおいが、直之は嫌いではなかった。

 排気ガスと体臭とがまざった、いかにも健康を阻害しそうな独特なにおい。電車やタクシーの中のそれとも異なる、路線バスだけが放ちうる個性。むろん進んで嗅ぎたいものではないにせよ、健全でまばゆいほどの空を仰いで気重きおもになったときなど、その不健全なにおいが中和の役割となった。


 中野駅に着くと、泰はまだ来ていなかった。スマートフォンを開くも、携帯ショップからのお知らせメイルしか届いていない。行きつけの本屋で時間をつぶすことにした。サンモール商店街に入らず、サンプラザの通りを直進して二、三分のところにある書店は、直之の気に入りスポットだ。

 中野駅周辺にいわゆる正統派な書店がほかにないというのは意外な気もするが、ここさえあれば事は足りる。ほどほどの広さで品揃えがよく、新宿や池袋まで出なくとも、ここに来れば目当ての本はたいていあった。数年前に改装し一時いっとき閉まっていることがあったが、再開後にはトイレが増設され――二階にカフェスペイスが新設されたからだ――、排泄間隔の短い直之にとってはありがたいリニュウアルだった。


 二階のトイレで用を足し、泰に「到着した」とだけ記したメイルを送る。

 場所など言わずとも、二人が中野で落ち合うときの場所は駅前かこの書店かのどちらかであり、前者の場合、直之は必ず改札のそばのわかりやすい位置にいるため消去法で判断できる。

 必要以上に余計な情報を付加するのは、泰とのやり取りにおいて好むところではない。到着した、の四文字だけですべてを理解してもらえるような関係の持続性を疑わないことが、直之にとっての青空の一側面でもあった。


 一階に降り、「趣味・実用」のコーナーに向かう。書店によっては申し訳程度しか置いていない囲碁関連の本が、ここには棚の上から下までびっしりとつまっている。溝上知親みぞがみともちかの棋書を手に取り、ぱらぱらと眺める。級位者向けの内容なので物足りないが、時折珍しい内容が載っていたりもするのであなどれない。

 

 こうして人を待ちながら本を立ち読みしている時間というのはどうしてこんなにも心安らぐのだろうと、直之は思う。

 期待と不安が混在した、でも確かな手ごたえのある関わりのひだ。誰かと会うとき、会っているときよりもむしろその前後の時間を咀嚼することこそ大切だと、直之は疑いもなく信じている。特に会う前の、不確定で未知の時間。言葉や表情や服装や空気が想像の中でふわふわと飛び交うあの時間は、直之という人間を形成する重要な要素だった。

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